歌うのは嫌いだった。下手くそだからだ。
子供のとき、合唱大会だったかなにかでひとりのこされて歌わされてひたすら違うと言われた日々。
どうすればよいのかさっぱりわからないまま、声を出せば、違うと、何度言ったらわかるのと。泣きながら、先生が諦めるのを待つばかり。
自分は下手なのだ歌うべきではないと、歌うことを恐れて生きてきた。だのに、世の中というのはカラオケで遊ぶというくそったれ文化を産み出しやがり、自称下手くそたちは、私だって下手だから、気にしないで歌えばいいじゃんなどとのたまい、俺をあの恐怖の個室に連れ込もうとしやがる。
だまされて一度は行ったこともある。
だがそれがなんだ、あ、この人ほんとに下手だとしらける雰囲気、とりつくろおうとするみんなの上ずる声、下手だと言ってるんだから、いっそ下手だねと言ってくれたほうがまだましだ。でもいいじゃん、楽しく歌いなよと言ってくれるならまだましだ。
歌えない、歌わない。絶対だ人前なんかで歌うものか。なんで歌いたくもないのに歌わされてあげく人を不快にしなければならない?
それが付き合いだってんなら、歌わないけど聴くだけならいいよ、におーけーしてくれよ。
なんでなんの疑問ももたずに歌わないのなんてマイクをさしだすんだよ。歌わないんじゃない、歌えねえんだよ。俺らも下手な歌披露してるんだからおまえだけなにスかしてんだよみたいな目で見るなよ。お前らの想像以上の公害を発しないように気を遣ってやってんだよ。
カラオケを万人の共通の文化みたいに思ってんじゃねーよ。

それでも付き合いはある。今日も僕はカラオケに連れ出される恐怖と戦う。

だから、仕方なくこっそり一人でカラオケに行く。
練習する。なんとか聞くに耐えれるくらいにはなりたいと。
練習する。どうせならうまいと言われるようになりたいと。
そして気づいた。歌うこと自体は嫌いじゃない。音楽に罪はないし、歌うことは自由だ。

相変わらず、下手くそだけど。人前では歌いたくないけど。それでも。
日記を書くことが私の精神衛生上有意義なことは過去10数年に渡り実証されていることなので、日記を書きたい。

誰に見せたいわけではないが、本当に独り孤独にノートに書き連ねる日記なるものはまったく興味をひかれないし、事実続いたためしもないので、こんな日記でも誰かの興の一つにでもなれるならという思いを含包しつつ、ただ自分のためにくだらないことをかいていたい。

ソーシャルメディアが発達し、ネット上の付き合いも匿名ではなく実名が当たり前になりつつあり、現実の延長としての側面が強くなった。
それはもちろん喜ばしいこともあるのだろうが、それゆえ生きづらくなった面もやはりあると思う。

高校時代からblogを始め、学校という閉鎖的空間から解き放たれて、どこのだれとわからない人達と交流することは実に刺激的な経験であり、匿名故に暴力的になる人達ももちろんいるが、匿名故に優しくなることもあったはずであり、なによりその非日常を私は楽しんでいた。
けして学校やクラスメートに不満があったわけでも、変わりない日々にストレスを感じていたわけでもないが、それでもどこまでも学生でしかなかった私がはじめて一個人として様々な人と触れ合う一つの機会であった。

現在の有力なソーシャルメディアの多くはすでに現実に侵食され、実際に知っている友人ゆえにダイレクトな反応はきやすいし、その反応を心待ちにすることももちろん楽しい。だがそれはしょせん、現実の関係性の上にあるものであり、私の書いたものごとにさしたる重要性はなく、言わば情による反応、そういった側面が強くなるように思う。

匿名のblogなどそもそも見る人など皆無に等しく、特に私のように堅苦しい内容を冗長に書きなぐる読みにくいし小難しいしたいしたことも言ってないであろう文章など、誰の箸にも棒にもひっかかるはずがないという思いがあり、それゆえ一人でも反応してくれた時の喜びは大きかった。
私のような未熟なものでも誰かになにがしかの共感を生むことができたのかもしれないと思うと心が震えた。
そんな経験は今はもうソーシャルにはない。

今やってるように匿名のblogをやればよいじゃないかと言われるだろうが、生暖かい友人の反応を受けることになれた私に、なんの反応も期待できない日記はやはりきつい。

それでもやはりやろうと思うにいたったわけは(あるいは一過性の衝動だとしても)日記が自己表現であり、自己内省であり、そうすることが私の精神衛生上悪くない効果をもたらすに違いないからであった。

そのためには、やはり現実の延長としてのソーシャルではなく、匿名の現実とは切り離されたバーチャルが必要なのだ。そうでなければ、愚痴や悪口を書くつもりはないが、私の頭のなかをぐだぐだとこうして書きなぐる文章を書くということ自体が私の現実の人間関係にどのような効果を及ぼすかわからないという余計な心配をかかえなければならない。こいつの中身はしちめんどうくさいやつだなどとさして仲良くもないのに繋がってしまった友人たちに内心おもわれてしまった上でまた次回会うようなことになれば、それこそしちめんどうくさい。

私の思考や文体が多くは好まれないことを理解してるがゆえに、ソーシャルにおけるパフォーマンス、アピールはリスクだらけで、結果あたりさわりのないことしか呟けなくなる。

そんなのはまっぴらごめんである。

だからこうしてここにかく。
ここにいるのは私ではない私であり。
ここをしるのはこの私しか知らない人である。

それでいいし、それがいい。