人もあろうに禎舟です。

人もあろうに禎舟です。

日々の記録、随想その他。

   大学院を辞める選択をしてから1年が経った。大学院を辞めたことはまったく後悔していない。むしろ、辞める時期がこんなにも遅くなったことに後悔してきた。もっと早く辞めていれば、いやそもそも進学していなければ、こんなに苦労することはなかっただろうし、家庭だって持っていたかもしれないと嘆くこともしばしばだった。過ぎたことは仕方がないとして、これから正しい選択をするにはどうすれば良いかを考えてみた。まず考えるべきことは、「主体的な選択」である。私の人生、考えてみればあまりにも場当たり的で誰かの意向を意識しながらの選択だった。自分がどうしたいのか、なぜそれがしたいのか、そうすることで何が可能なのかを考えることがなかったのだ。大学院進学もそうだった。研究を通して何かがしたいわけではなく、ただただ自分の最終学歴が丹木の丘で終わることがたまらなく悔しかったのと、親の大学院に進学して欲しいという思いを折衷させたのが「他大大学院への進学」だった。しかし、本当に大学院まで行って研究がしたかったのだろうか。むしろ他の大学で学生生活をやり直したかったのが本音ではなかったか。だったら学士入学や3年次編入という手もあったはずである。博士課程だって、今思えばなんとなくだったと思う。親をはじめ親族は博士課程進学を希望していたし、私もなんとかなるだろうとしか思っていなかった。しかし、そうした漠然とした主体的のない選択は、それが失敗すると後悔しか生まない。逆に高校進学は目標が明確でその目標から逆算して計画を立てたので、後悔がない。主体的な選択は自分自身に責任を持つからこそ自分自身を納得させられるのだ。

 

 しかし、主体的な選択を重ねても常に後悔を免れるとは限らない。失敗と感じられることもあるだろう。そこで大事なのは、「正しい選択」ではなく、「選択を正しくする」ことだ。自分がどんな選択をしたにせよ、その選択に向き合うことで人生を前向きに捉えられるようになる。これを知った私は、これまでの後悔した選択に当てはめて考えてみた。

・学部の進学先
(以前)行きたくもない大学に通い、4年間を無駄にした。
(今)第1志望に受かっていれば何も考えずに信仰に流されていたかもしれない。信仰に関し今割と健全に考えられていると感じられるのはあのとき悩んだからだ。

・大学院進学
(以前)向いていないことを選択した。その期間を職業生活に費やせば今より高い賃金や身分を得られたかもしれない。
(今)その代わりに(多少ではあるが)知識や思考力を得られた。それが中受の指導に生きている。

・10年間の博士課程
(以前)非常勤に明け暮れたため何も成果を残せず、就職が遅れた。
これに関しては現時点で明確な意義を見いだせていない。ただ、まったく成果がないことはないので、整理してみる。
・査読なしではあるが研究ノートを「人文/社会」誌に掲載してもらったこと。それを国語科の先輩講師に高く評価してもらったこと。
・上の結果を得たのは少なくとも思考力や表現力を身につけていたからであり、それは修士だけでは難しかっただろうということ。

・少なくとも研究テーマを「面白い」と東大の高田さんに言ってもらえたこと。実は自分と似たような観点で書かれた新書がベストセラーになっていること(テーマの着眼点)。

上記を踏まえて、10年間の博士課程生活を無駄にしない方向、博士課程に通ってよかったと思えるような職業選択を今後していく方向で考えてみたい。そうだ。Twitterのフォロワーに現代文講師で評論家の中崎学先生がいる。ある程度何か書きためたら一度相談してみても良いかもしれない。国語科の指導と評論活動を両立させる方向はどうだろう。

・・・と考えていくうちに少し気持ちが明るくなってきた。そして今私の前に朝日が差し込む。