「明治の男たち」2まで書いたものの、自分でも忘れて1年がたってしまった。個人的な「明治の男ナンバー1」の鈴木貫太郎までたどり着いていない。

 

 このたび、お孫さん(といっても1931年生まれ)の鈴木道子さんが『祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔』(朝日新聞出版)を出されたので、さっそく読んでみた。

 

 追想は昭和11(1936)年の2月26日の早朝、父上の鈴木一氏に電話がかかってきたところから始まる。祖父鈴木貫太郎「危篤」の報だった。陸軍の青年将校が重臣たちを襲撃した「二・二六事件」である。

 

 襲われた6人のうち、3名が死亡した。昭和天皇の侍従長であった貫太郎は重傷だった。明治元年の前年、慶応3(1867)年生まれで海軍軍人として大将までつとめ、昭和4年に侍従長となっていた。

 

 

 早朝5時に自宅へ乱入してきた兵に貫太郎は「こういうことがあるのには、なにか理由があるだろうから、その理由を聞かせてほしい」と問う。3度尋ねても兵からは回答がなく、その一人が「もう時間がないから撃ちます」と言う。

 それで貫太郎はどう答えたか。

 

「それなら止むを得ません。お撃ちなさい」

 

 こんなこと、この絶体絶命の場で言えるのは、肝の据わった明治男でもそうそういないでしょう? 

 

 貫太郎は4発の銃弾を浴びる。とどめをさそうとした兵に、妻のタカ(最初の妻が早世したので、48歳のときに再婚した二番目の妻。昭和天皇の乳母だった)が銃剣に囲まれながらも「とどめだけはどうかしないでいただきたい」と言い、兵はとどめはささず、捧げ銃をして出て行く。

 明治女もすごいですな。

 

 

 襲撃を聞き、当時屈指の外科医であった塩田広重博士が駆けつける。連れてきた青年から輸血を行い(動く献血瓶?)、貫太郎は救命された。

 出血は多量で、一時は脈が途絶えるような状態だったが、博士が来るまで動かさず、タカが霊気術なるもので傷口に手をあてて止血したのがよかったのかもしれない(不謹慎かもしれないが、「私が来たからには大丈夫だ!」と塩田医師が叫んだあと、辺り一面の血にすべってこけた」というエピソードが私は好きだ)。

 

 こうして一命を取り留めた貫太郎は、16年後の昭和20(1945)年4月、総理大臣として指名を受ける。

 

 結構長くなったので(笑)、次回に続きます。