ひとむかしのmixiも文通も経験はなく、

スマホ世代の初代を勤めた僕たちからしたら

下心のやり場というものは、

LINEの“ひとこと”か、ツイッターの“いいね” かの、

ある種、二強の正攻法ではないかと思う。

私を含む外道は、更に脇道を行く。

Instagram のコメント欄におススメとして上がるアカウント。

あれは、上にある程 双方からの関心が高い事を示すようで、

あれを、バカのようにオブサーブする。

あ、自分の好きな人が1番上に来た。

それが安心になることもある。

そんな卑劣な様子の伺い方は、正攻法ではないからこそ、

続けると負い目を感じる事もある。

スマホという言葉すら無かった幼少期の、

ゴールデン恋愛ドラマのイメージが、潜在意識の底にへばりついていて、

デバイスを介して、もどかしい想いを暗喩する事は、

どうも後ろめたく思えてしまう。

更に下の世代はよもや、

その憧れを写すテレビも見ず。

生まれも育ちもスマホと共に。

きっとまた、私達とは違う形での青春の小競り合いが待っている。

私達の親世代の伝家の宝刀、ラブレター、文通は、

絶滅危惧種、絶滅種であり、

さやを残してもはや伝説化している。

それと同じように、私達のSNS忖度戦法も、

次第に幻となっていくのだろう。

いつか抱いた憧れの未来と、今を重ねると

どうもマルをつけられない。

憧れが形骸化している今に肩を落とす。

時代のジレンマ。

そうしてまたインスタのコメント欄を開き、

安心を卑劣に模索する。