ここ最近、全体的に人の思考が「軽く」なっている。
このまま進むと本当に考えるのをやめるのではないかと
さえ思ってしまう。今の教育方針とは間逆だ。

コンビニでは接客という本来の目的から外れ、客を押し
のけてまで商品陳列をする姿を見る。某局の
ニュース司会者は国民に影響を大きく与える公の場の
電波を使い「○○でね」「○○とか」と言い出している。

本音と感情を勘違いしている人も多い。これ以上は書かないが・・

大きな違いは「相手を思いやっているか」だと思う。
この発言をすれば、相手はどう感じるのだろう。
もし、自分が同じことをされたらどう思うのだろう・・と。

そこをすっ飛ばして「自分さえ良ければいい」と思う事が
根底にあるからそのような行動になる。正直もう思考を
止めた人とは関わりたくないという気持ちが大きい。
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ここの所、祖母の容態を見に帰省をしているが、まだ都会
よりも田舎のほうがまともであると感じている。

私の実家は「小京都」と呼ばれている。
今ここに住み、しばらく京都でもどっぷり仕事をしていたが
本当に京都気質とよく似ていると思う。

田舎や京都では、人との繋がりがなければ生きていけない。
突き詰めれば「損得」なのだと思うが、目先のことではなく
過去から何百年と祖先が生き続けてきて、この先も末永く
ここで生きるという「覚悟」がある。

地元では第一次産業と観光が主な収入源。どちらも自分のエゴ
ではどうにもならない。
第一次産業は自然に左右される。頑張っても逆らえない。
だから自然の声を察知することに集中し、最善を尽くす。

観光産業は手をこまねいているだけでは勿論破綻する。
PRが必要だが、相手の心に響かなければ失敗になる。
自分が心から良いと思うものを丁寧に、一人ひとりに対応
できなければ、口コミの時代ではリピーターもいなくなる。

どちらも利益を得たい気持ちだけでは難しい。自身の心が
充実してなければとても続けられない。そして、その地で
共存していく為には近隣と協力しなければいけないのだ。

それが歯に衣を着せた言葉であったり、よそ者を受け入れ
難い土地柄であったりするのは知恵の一つだと思う。
単に拒絶をしているわけではない。相手の痛みを知っている。
お互いの心の内を知った上でどのように生きるのが最善かを。


私は懸命でよいと思う。たとえ体を壊したとしても。
他人を踏み台にしてその場をやり過ごし、他人や自分を
ごまかしながら生きる位なら、ナマコになるほうが地球の役に立つ。

人が考えるのをやめてしまうことは進化をやめてしまう事。
ここの所の変化は「ヒト」を放棄しているようにも見える。