しかし記紀における2代綏靖から9代開化天皇までの8人の記述はプロフィール的なものに留まり具体的な事績や人柄を語ってはいません
また不自然に長命であることから実在しない人物を並べて歴史の嵩増しを行ったのではないかとする説もあります
いわゆる「欠史八代」です
10代崇神~14代仲哀天皇まではそれなりに人間的なエピソードも出てくるのですが、15代応神天皇の存在もまた微妙であり応神は16代仁徳と一つの人格を2つに分けた存在なのではという説もあります
さらに言うと歴代天皇の中で「神」の文字を与えられた初代神武・10代崇神・15代応神の3人が本来の始祖的な存在を3分割したのではないかとする考え方もあるようです
14代仲哀天皇は有名な日本武尊(ヤマトタケル)の子であり継嗣のいなかった伯父・13代成務の後を継ぎました
しかし海の向こうにある国(新羅)を攻め取れという神のお告げを受けた皇后の話を信じずに天罰を受けて急逝してしまいます
皇后は再びお告げを聞き、自ら軍勢を率いて海を渡り三韓征伐をしたとされます
彼女がいわゆる神功皇后でこれが単なる神話的な物語かというとそうとも言えないのは、11世紀の中華の史書(新唐書)にその存在が記されているからです
ただこの史書自体11世紀になってから7~800年も前の外国の事を記した物なので、単純には鵜呑みにできない話ではあるでしょう
しかし広開土王碑の内容等から当時の日本が朝鮮半島に進出し、5世紀以降その一部に権益を持っていたらしい事が窺えます
それが神功皇后のことなのか、それ以前に大和王権のことなのかが定かではありません
神功皇后は三韓征伐にあたり懐妊していた仲哀の子を3年にわたって出産をこらえたというエピソードをもちます
先に応神と仁徳を1人の存在を2つに分けた仮説を紹介しましたが、この両者の物と考えられる陵墓が日本最大と2番目に大きい大仙陵古墳(仁徳)、誉田御廟山古墳(応神)である事から、相当の功績や権力があったものと想像できますが、記紀の記述を見る限り特に偉大な事績を確認できません(ちなみに古墳と被葬者の関係は江戸時代の国学の隆盛を元に明治時代に比定した物が多く、7世紀以前の物については殆どアテにならない事が多い)
倭の五王に見られる様に中華への朝貢や21代雄略天皇の時代の関東への版図の拡大など、大和王権の発展期に当たるわりに記紀の扱いは淡白です
また応神天皇の諱である誉田別尊(ホムダワケ)の『ワケ』という呼称が応神の前後から突如として始まっており、権力構造の変化つまり王朝交代の可能性を論じる説もあります
王朝交代説とは10代崇神~14代仲哀をその政治の本拠地から三輪王朝(または古王朝)とし、15代応神~25代武烈までを河内王朝、26代継体を近江王朝とするものです
14代仲哀は神託を無視した為に天罰を受けて亡くなり、25代武烈も絵に描いたような暗君暴君として国を失った事が暗喩されていることもこの仮説の補完する材料になるでしょう
新王朝を打ち立てた応神とその後継者である仁徳なら巨大な陵墓が築かれてもおかしくは無いと言えます
さらにこうして権力者の交代が何度か起きていれば、8世紀の編纂である記紀が前王朝の始祖たちの功績に淡白になる理由も分かる気がします
しかしこれを理由として日本の天皇の万世一系が否定されるという事にはならないでしょう
大国主がスサノオの娘婿として出雲の国を得た事、イワレヒコがニギハヤヒの娘婿として大和の王権を得た事、継体天皇が先帝の姉に婿入りする事で大和の王権を継承した事、記紀は繰り返して簒奪ではなく同化による新たな王の取り込みを語っています
また古代の天皇が専制君主的な覇者でなく宗教的な祭祀王だった点から見ても、いきなり他所の簒奪者が神の使いですと名乗っても信仰を得られるものではないでしょう
7世紀くらいまでの大和王権が寄り合い所帯な連合政権だったらしい事から考えても強大な権力を持った覇者の存在は似合わず、むしろ継体天皇のように用が済んだら(この世から)退場を願うという様な生贄的な性質すら持っていた(古代エジプトのような)のではないかと考えられるのです
それが絶対君主的な存在に変わっていったのは21代雄略のあたりで大和王権の版図が拡大したことで、王朝を初期から構成した氏族に加え拡大した地域から参加した勢力が影響力を増していく中で両者が同等に扱われる為に天皇の権力を高めたのではないのでしょうか
私は古代の天皇という存在は現代における国連事務総長やローマ法王みたいなものだったのではないかと考えています
実際の権限は無いに等しく、国連という大国のエゴが飛び交う場所では事務総長は只の調整役に過ぎず、有力国からは選出されないのが暗黙の了解になっています(某国涙目w)
古代の天皇も統合の象徴として担ぐ神輿というか、御神体的な扱いをされていたのでないでしょうか
有名な魏志倭人伝でも卑弥呼は数十のクニが纏まる為に担いだ女王で巫女だったと記しています
邪馬台国と大和王権の関連は明らかにされていませんが、この時代における王という存在の在り方を示しているように思えます

長すぎる前置きのあとにようやく今回の本題です
それはこの時代の天皇の人間的なエピソードです
11代垂仁天皇の皇后・狭穂姫命(サホヒメ)は同母兄の狭穂彦王(サホヒコ)から「夫と兄である私、どちらを愛しているか?」と訊かれ「兄上です」と答えます
…いきなりラノベのような展開w
「ならば私とお前でこの国を奪おう」と言われ、短刀を渡され垂仁を殺すように命じられました
サホヒメは膝枕で眠る夫に短刀を振りかざしますが、やはり刺せずに涙をこぼします
落ちてくる涙の水滴に気付いた垂仁がその訳を問いただすと、サホヒメはその企みを全て白状し兄の元へと逃げ帰ってしまいました
反逆者への討伐の兵をあげた垂仁でしたが妻の事は愛していたので、兄妹が立て篭もる城を包囲すると妻だけは許すので帰ってくるようにと訴えます
その時サホヒメのお腹には子供がいたのですが、彼女は生まれた子供を燃え盛る城の外へ置くと兄の元へと帰ってしまい兄に殉じるのでした
この時生まれた皇子は母の遺言により誉津別命(ホムツワケ、炎から生まれたの意)と名付けられ、垂仁から愛されて育ちましたが大きくなっても言葉を話せませんでした
占い師に調べさせたところ、出雲の大国主の崇りだという事になり早速祀らせると話せるようになったと言います
このエピソードには他の日本神話と幾つかの符合点を見出せます
ひとつは母の死と引き換えに炎の中から生まれたホムツワケは、伊邪那美の死の原因になったカグツチの話に似ています
またこのホムツワケが言葉を発せないというのは大国主の子・事代主のイメージにもつながります
しかしこれだけのエピソードを持ち父垂仁に愛されていた筈のホムツワケですが、彼は後継として皇位に就いてはいません
先述した「ワケ」の名称がこの時代においては彼だけが持つ事と関係があるのでしょうか
関係ありませんが垂仁の時代に、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たぎまのけはや)が天皇の前で手乞いという格闘技で(相手の両手を掴みあう形から始まり、投げパンチキック・関節技もありでどちらかが死ぬまで戦う)闘ったのが相撲の始まりだとか
この実の兄妹の醜聞が権力の座に影響を及ぼすとパターンは他にも幾つか見られます
19代允恭天皇の時代、その長子で皇太子だった木梨軽皇子(キナシカル)に同母妹である軽大娘皇女(カルノオオイラツメ)との近親相姦の事実が発覚、失脚して殺されたとも言われています
その結果、父の後を継いだのは同母弟の穴穂皇子こと20代安康天皇でした
皇族は血統を保つため近親婚を繰り返していたものの、直接の親子間や同じ母親から生まれた兄姉弟妹間での婚姻だけは禁忌とされていました
そのタブーを犯したキナシカルは皇太子の資格を失い、父・允恭の死後に豪族らの支持を得られず失脚したと言うのです
このエピソードの真偽はともかく、仁徳の子供たちの世代になって初めて兄弟間での皇位継承が始まり、それが末弟に至って次の世代へ移行する時に皇位継承争いが起きたのは興味深いことです
この安康の辺りからそれぞれの天皇の逸話について具体的な生々しい話が増えていきます
安康天皇が実弟である大泊瀬幼武尊(オオハツセワカタケル、後の21代雄略天皇)の結婚の世話をしようとはかりますが粗暴な性質で知られたワカタケルだけに皇族は皆断りました
安康が伯父にあたる大草香皇子に話を持って行くと、家族の行く末を案じていた皇子は2つ返事で妹の草香幡梭姫皇女(クサカノハタビヒメ)との結婚を了承しました
しかし使者に立った者が返事代わりの宝物に目が眩みこれを着服、安康には大草香皇子に悪し様に断られたと報告しました
これに怒った安康は兵を送り大草香皇子を誅殺、その妻だった長田大郎女を我がものとし草香幡梭姫皇女を弟に与えたのでした
長田大郎女には眉輪王(マヨワ、目弱王とも書くため視力が弱かったのか目先が利かなかったという意があるとも言われる)という連れ子がいたが、父母の会話から自分の生い立ちを知り実父の仇を討つべく安康を刺殺したと言います
但し眉輪王は当時7才とされ事実だとは思えないのですが、おそらくは何かの隠喩なのでしょうか
兄の仇を討ったのがワカタケルであり、そのついでに安康が自分の後継者と目していた市辺押磐皇子(イチノヘオシハ)を始めとして皇位継承のライバルになる兄弟や従兄弟たちを片端から殺して皇位に就きました
物語的に想像を逞しくすれば、兄である安康天皇が後継者を自分でなく従兄弟の市辺押磐皇子に譲ろうとしている事を知ったワカタケルは、皇位を得る為に兄の暗殺を企てその罪を連れ子の眉輪王に着せ、これは皇位簒奪の陰謀であると喧伝して黒幕である皇子たちの粛清に走った…というストーリーになるでしょうか
この時の皇族の粛清が影響して皇統が細くなってしまい5代のちに継体天皇を迎える事になるのです
雄略天皇が大和王権の版図を拡大した功績とその前後の血生臭いエピソードの数々、そして継体の擁立までが1本のストーリーとして関連しているのではないかと感じるのは私だけでしょうか?
( ・ω・) 「忘れた頃に続きがやってきますw」