7月に入った初端から6月の~というタイトルも難ですが、間に合わなかったのでしょうがありません
先月はサッカー強化月間であり、来月にはロンドン五輪も始まってしまうので趣味の事をやるなら今の内しかないという事で急遽ネタに走ります
歴史的に見て6月には重大なイベントが2つ発生していました
1582年6月2日の「本能寺の変」と645年6月12日の「乙巳の変」です
本能寺の変については旧暦の6月2日は現在の暦では7月1日に当たるそうです(wiki情報)
ただこちらの事件については各説が出揃ってる感もあり、今さら家康が首謀者だの秀吉がどうのと言っても目新しさに欠けるので今回は取り上げません
後者は大化の改新の名称で知られていますが、これは6月12日のクーデターを受けて成立した政権が翌年元旦に発表した改新の詔を明治時代になって名付けたもので、クーデター部分は乙巳の変と呼ばれます
事件の概要は以下の通りです
皇極天皇に三韓の調を奉る公式行事の席上、列席していた大臣蘇我入鹿に中大兄皇子が斬りかかりこれを殺害した
入鹿は「自分に何の罪があるのですか」と皇極天皇に虫の息で問いかけるも、天皇(女帝で中大兄皇子の実母)は大いにうろたえて凶行の場から逃げ去った
翌日、クーデター派(中臣鎌足、阿部内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂など)は入鹿の父・蝦夷も討伐すべく兵を集めていたが命運を悟った蝦夷は自ら館に火を放ち自害して果てる
皇極天皇は事態を収拾すべく退位を宣言、中大兄皇子は当初自ら即位する意思を示していたが腹心の中臣鎌足が凶事を以って皇位に就いたのでは誹りを受けると、皇極天皇の弟である軽皇子を立てるべきと訴える
中大兄皇子もこの意見を容れて軽皇子を孝徳天皇として擁立した
表面的に見れば父子で朝政を壟断し簒奪まで企てた蘇我氏を、義憤に燃えた中大兄皇子らが排除した壮挙という事になるんですが、実はこの事件は分からない事が多すぎるのです
皇極天皇は中大兄皇子の実母であり当然の事として女帝なわけですが、先代は彼女の夫であり皇子の実父である舒明天皇です
舒明天皇が亡くなった時(641年)に皇子は15歳に過ぎず、即位するにはまだ若過ぎたと考えられたようです
しかも中大兄皇子には異母兄・古人大兄皇子がおり、その母は蝦夷の妹で入鹿にとっては古人大兄皇子は従兄弟となり、蘇我父子としてはこちらを後継者と考えていたようです
ちなみに「大兄」とは皇子の中で同じ母親から生まれた男子の兄弟の長男を意味し、皇位継承権を持つと考えられる称号です
王ともなれば妻女が複数いてもおかしくはなく、妻ごとに長男つまり大兄がいることもあるわけですが、中大兄とは2番目のという意味で大兄の序列は生母の血統を別にすると年齢の順によって決まっていた様です
ただこれは皇太子という意味ではありません(この時代には制度として皇位継承順位という概念は無かったようです)
天皇の後継者は指名がされていない場合、今上が亡くなった時点で皇位継承資格を持つ皇子達の中から能力・人柄・血統などが加味されながら、結局のところはそれぞれの後援についた氏族の力関係が物を言ったようです
天皇本人の実力もさることながら、その下で政治を行う臣下に財力や兵力がなければ実際の行政は何も動かず、その意味で実力のある氏族を味方につけていなければ即位しても却って国を乱す元になってしまいます
舒明天皇が亡くなった時、その皇后だった宝皇女が後継者になったというのはかなり異常な事です
推古天皇という先例はあったのですが、この時には皇后の長子である中大兄皇子もその異母兄である古人大兄皇子もいたのですからわざわざ皇后宝皇女を立てる必要は無かったように思えます
しかしこの状況だからこそ宝皇女を中継ぎとして立てざるを得なかったとも言えます
血統からいえば中大兄皇子が、年齢の順と蘇我氏の後援が見込める施政の安定を考えれば古人大兄皇子が相応しい状況でどちらかを決めてしまえば、漏れた方が不満を持ちます
60年ほど前には穴穂部皇子が異母兄弟の用明天皇の即位に異を唱えて騒動を起こし、それが丁未の乱にまで発展してしまった例もありました
中大兄皇子陣営と古人大兄皇子陣営の対立を避ける為に宝皇女を即位させた…のでしょうか?
しかし皇極天皇の御世において蘇我氏は大臣として権勢を振るい、乙巳の変が発生しています
古人大兄皇子が即位していても同じ事が起きたでしょうから、皇極天皇の中継ぎが意味が無かった事が分かります
では中大兄皇子は自分が天皇になりたくてクーデターを起こしたかと言えば、結局は母の弟の軽皇子を立てて孝徳天皇にしており、その後仲違いを起こしてこれを見捨て再び母親の宝皇女を斉明天皇として重祚させています
さらには斉明天皇が亡くなった後(672年)、約7年もの間空位にして即位しないまま政治の実権を振るう称制を行いました
実際に即位していたのは668~672年の4年間に過ぎませんが、だからと言って皇位に興味が無かったわけでもなく晩年には本来の彼の後継者であるべき実弟の大海人皇子を退けて実子である大友皇子を皇位に就けようとしました
大友皇子の生母は皇族ではなく地方豪族の娘であった事からその皇位継承資格には疑問があり、後の壬申の乱に敗れる一因にもなっています
この中大兄皇子という人は何を考えているのか分からない、ちょっと不思議な人物だと言えます
しかし中大兄皇子のキャラクターを彼個人の人生の行動で語ろうとするのも無理があり、その前後の時代も含めて考えていかないと乙巳の変の真実に近づくことも出来ないと思います
そこでこの時代、つまり日本の歴史における古代史について私見を展開するべく、不定期にこのネタで何か書いていこうと思います
とりあえず次の記事はユーロサッカーネタになる予定ですがwwwwwwwww
( ・ω・) 「サッカーの方が重要です(キリッ」