悪意というもの3 | typの推しつ推されつ

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都内のメンタルクリニックに勤務しております。折々のお気に入りのコンテンツについて取り留めなく語ります。

先ごろ始まった宮藤官九郎のドラマ「不適切にもほどがある」。



1986年の中学校教師である阿部サダヲが現代にタイムスリップをするという設定なのだが、この先生、教室やバスの中でタバコを吸うわ自分の娘を罵倒するわの、今なら大炎上間違いない言動を繰り返す。


しかしそこはうまくしたもので、ドラマ開始冒頭にこんなテロップが。



そんななんで、もうサダヲの発言は無法地帯でむしろ小気味よくもある。


正直悪意ダダ漏れという発言ばかりなのだが、そんなに捻じ曲がった底の深い悪意ではなく、その時その場で感じた瞬間最大風速的な悪意をその場で炸裂させているせいか、見ているこちらにもそんなにダメージがなく、むしろ清々しい。


この時代はおおらかだったとか野蛮だったと言えばそれまでなのかもしれないが、今のコンプライアンスやポリコレ重視の風潮に笑いを通じて一石を投じる形になっているのがクドカンの匠の技である。


ふと思ったのだが、この時代も現代も悪意の総量は変わらず、表出の形態が変わっただけなのではないだろうか…


かつてはSNSはおろかインターネットすらなかったのでその場で表出するか、誰かに愚痴るぐらいしかなかった。


なので直接的でぶしつけではあるがその場その場である程度折り合いをつけることができていたのではないか…


一方で今は悪意の対象も表出する場所も無限大となっており、非常に隠微で持続的な悪意がはびこってしまうようになってしまったのではないかという気がする。


そんな時代に、それでも「愛は勝つ」とためらいがちながらも力強く歌いあげるIUを応援したい。