ちょっと気になる本がある。

Java Script: The Good Parts ―「良いパーツ」によるベストプラクティス/Douglas Crockford

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Amazonからの引用だが
# JavaScriptは言わばひとかたまりの大理石であり、私はその中からこの言語のすばらしい本質が
# 現れるまで、美しくない機能を取り除いていく。最終的に私が削り出すことになる美しい
# サブセットは、より信頼でき、読みやすく、メンテナンスがしやすく、すべてにおいて非常に
# 優れた言語になると私は信じている。」(「1章 良いパーツ」より)

この「美しくない機能を取り除いていく」というのには共感した。命令を何でもかんでも覚え使えばいいというものではなく、使うものを取捨選択した方がいいという意味だと理解したが、これはVBAでも同じ事。
もしかするとコンピュータ言語全般、もしくはコンピュータの言語か否かに関わらず言語全般に言えることかもしれない。

参考に購入して読んでみようと企んでいる。


引きこもりというと、通常は物理的に「部屋に閉じこもって出ない」ことを指すようだ。一時、定職をもたず生活費の安い海外で株の運用などで生計を立てる「外こもり」なる言葉もあったが、今回はそういう物理的、地理的な話ではない。

公共の交通機関や道路などで見かけるのだが、外には出ているけれども、自室の延長というか、そういう感覚の人が増えているのではないかと思う。
例えば、電車の席 少し詰めれたり荷物を膝の上に置いたりすればもう1人~2人座れるが、言われるまで詰めないというのはよく見かけるのではないだろうか。お互い譲り合いの気持ちがあればできるはずなのにできない。これは年齢、性別に関係ない。ただ、観察している限り、人相学的には傾向はあるようである。

公共の場でそういう配慮ができない人間は、どうも器が小さく見えてしまう。器の大きい親分肌の人って、周りに目が届くものだから。

家の中では好きにして貰っていいが、どうも「自宅の延長線上」と考えて居るのではないだろうか?それが迷惑なことであるという認識はきっとないのだろう。いわば「精神的引きこもり」である。最近はイヤホンで聴覚を遮断するのみならず、携帯やゲーム機で視覚まで目の前のものだけになっている人が増えている。彼らは自ずと聴覚と視覚がほとんど周囲には向いていないので、周囲の変化にも気が付かない傾向が強いようだ。近くに老人が来ても妊婦が来ても、座席を譲るのはそうではない人が圧倒的に多いから。

今の電子機器の発達や普及は、そういう精神的引きこもりを助長するのではないかと懸念している。



先日、映画の話を書いたが、それに関連する。
その映画館はショッピングモール内にあり、モール内の飲食店で映画の半券を見せると割引きなどのサービスを受けることができるらしい。どこでどんなサービスを受けられるのかは店舗ごとに決まっているらしいが、一覧があるわけでもない。

で、映画の後にモール内のフードコートで昼食。どこの店も「映画の半券で云々」という文句は掲げていない。ここにはフードコート以外の飲食店もあるので、そちらのサービスなのかな、と思いつつ、いちばん人が並んでいないお店でオーダー。
「ご一緒にドリンクも如何ですか?」と促された。子供達にはいくら飲み物があっても構わないが、コップ一杯のソフトドリンクに100円は高い。断ってレジに進み、レジ前から店内を何気なくひょいと覗くと「映画の半券でドリンク一杯サービス」とあるではないか。



おそらく、ショッピングモール運営主体としては映画と飲食店とのシナジー効果を狙ってのサービスだろう。ところが飲食店側として「サービスするメリット」の説明をモール運営側からきちんと受けていないのではないだろうか?だからほとんどの客には見えない位置にサービスの案内を掲げているのではないだろうか。

このような連携ならやらない方がましではないかと思う。