大学生か大学院生の授業の一環のような状況で、ある地域の復興支援の案をチームで考えて発表するような状況をテレビで見かけた。

その中で、質問側から当人たちが想定していない、準備していない質問が出た。それに必死に答えるチームリーダーらしき人と、ただ並んでいるだけのメンバーの構図。

このメンバーのような状態を、私は「当事者意識が低い」という表現をしていた。しかし、この
状況を、指導教官らしき人が表現したのが新鮮であった。

傍観者

そう、傍らで観ている者、というそのまんまの単語で歯切れがよい。わざわざ「当事者意識」というものを「高い」か「低い」か、という表現を使わなくてもよい。


大事なのは事の本質なのだが、表現として注意しなくてはいけないのは、こういう歯切れのよい言葉は第三者にその言葉の印象を植え付けてしまう危険性が伴う。断定してしまえば特にそうなる。
それを利用してラベリングに使ったりするケースもあるため、使う側も勿論だが、受け取る側もそういう心を持ちあわせて置くべきであろう。