引きこもりというと、通常は物理的に「部屋に閉じこもって出ない」ことを指すようだ。一時、定職をもたず生活費の安い海外で株の運用などで生計を立てる「外こもり」なる言葉もあったが、今回はそういう物理的、地理的な話ではない。
公共の交通機関や道路などで見かけるのだが、外には出ているけれども、自室の延長というか、そういう感覚の人が増えているのではないかと思う。
例えば、電車の席 少し詰めれたり荷物を膝の上に置いたりすればもう1人~2人座れるが、言われるまで詰めないというのはよく見かけるのではないだろうか。お互い譲り合いの気持ちがあればできるはずなのにできない。これは年齢、性別に関係ない。ただ、観察している限り、人相学的には傾向はあるようである。
公共の場でそういう配慮ができない人間は、どうも器が小さく見えてしまう。器の大きい親分肌の人って、周りに目が届くものだから。
家の中では好きにして貰っていいが、どうも「自宅の延長線上」と考えて居るのではないだろうか?それが迷惑なことであるという認識はきっとないのだろう。いわば「精神的引きこもり」である。最近はイヤホンで聴覚を遮断するのみならず、携帯やゲーム機で視覚まで目の前のものだけになっている人が増えている。彼らは自ずと聴覚と視覚がほとんど周囲には向いていないので、周囲の変化にも気が付かない傾向が強いようだ。近くに老人が来ても妊婦が来ても、座席を譲るのはそうではない人が圧倒的に多いから。
今の電子機器の発達や普及は、そういう精神的引きこもりを助長するのではないかと懸念している。
公共の交通機関や道路などで見かけるのだが、外には出ているけれども、自室の延長というか、そういう感覚の人が増えているのではないかと思う。
例えば、電車の席 少し詰めれたり荷物を膝の上に置いたりすればもう1人~2人座れるが、言われるまで詰めないというのはよく見かけるのではないだろうか。お互い譲り合いの気持ちがあればできるはずなのにできない。これは年齢、性別に関係ない。ただ、観察している限り、人相学的には傾向はあるようである。
公共の場でそういう配慮ができない人間は、どうも器が小さく見えてしまう。器の大きい親分肌の人って、周りに目が届くものだから。
家の中では好きにして貰っていいが、どうも「自宅の延長線上」と考えて居るのではないだろうか?それが迷惑なことであるという認識はきっとないのだろう。いわば「精神的引きこもり」である。最近はイヤホンで聴覚を遮断するのみならず、携帯やゲーム機で視覚まで目の前のものだけになっている人が増えている。彼らは自ずと聴覚と視覚がほとんど周囲には向いていないので、周囲の変化にも気が付かない傾向が強いようだ。近くに老人が来ても妊婦が来ても、座席を譲るのはそうではない人が圧倒的に多いから。
今の電子機器の発達や普及は、そういう精神的引きこもりを助長するのではないかと懸念している。