日本に於いてビジネスでも広く電子メールが使われ始めたのは1990年代の中頃からだったと記憶している。その当時「なんだこのメール?」という文がよく見られた。そう、それまではビジネスにおいては電話での連絡が多く、稟議書など以外で文章を書く機会が少なかったのだが、いざ文を書くとなると、人に意志を正しく伝える文が書けない人が多かった、ということだったのだと思う。
今では、HPを経て、ブログなどで日常や意見を述べる人が増えていた。やはり文のうまい人、そうでない人もいる。
また、ブログやHPにはコメント欄があり、書かれていることに対して好きに意見を書き込める機能もある。そのコメントもうまい人、そうでない人がいる。
思うに
・読み手が「理解しようとする努力」が不足していること。
・書き手が「理解してもらおうとする努力」が不足していること。
の両方があるのではないかと思う。
戦前には文章の綴り方の授業があったと聞くが、現在ではせいぜい作文くらいで、その作文も「書くだけ」にとどまっているのではないようだ。
また、複数の人の目を経て世に出るはずの書籍や新聞、雑誌の文章も、誤字のみならず最近はおかしなものを見かける。
しばらくして見たら、古典文学よりも難解な文で解読不能である、というものは多いのだろうな、と懸念している。
私自身も読み返す、日を於いてチェックするなど、努力はしているが、まだまだ足りない部分はある。
今では、HPを経て、ブログなどで日常や意見を述べる人が増えていた。やはり文のうまい人、そうでない人もいる。
また、ブログやHPにはコメント欄があり、書かれていることに対して好きに意見を書き込める機能もある。そのコメントもうまい人、そうでない人がいる。
思うに
・読み手が「理解しようとする努力」が不足していること。
・書き手が「理解してもらおうとする努力」が不足していること。
の両方があるのではないかと思う。
戦前には文章の綴り方の授業があったと聞くが、現在ではせいぜい作文くらいで、その作文も「書くだけ」にとどまっているのではないようだ。
また、複数の人の目を経て世に出るはずの書籍や新聞、雑誌の文章も、誤字のみならず最近はおかしなものを見かける。
しばらくして見たら、古典文学よりも難解な文で解読不能である、というものは多いのだろうな、と懸念している。
私自身も読み返す、日を於いてチェックするなど、努力はしているが、まだまだ足りない部分はある。