tears-of-solomonのブログ

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人にはあまり見せない部分の私が書かせるお話です。

本来は、ここにはなかなか載せられない系統のお話を書いています。ここには自分が深呼吸するような感覚で普段は見せない毛色の話をたまに置いてみる感じです。

 バス停に向かうとき、ひかりは祐輔の家を見上げる。手前角のベランダの部屋が祐輔の部屋なのは知っている。今は時折風を入れるためか開けられた窓からカーテンがたなびくのが見えるだけで、祐輔の姿はない。高校卒業後、遠く離れた歯科大に進学をした祐輔とはその後一度クラス会で会っただけだ。会えばやはり話は祐璃の事になった。


「帰れたのかな…」


 そうしたほうがいい、といった自分の言葉が正しかったのかどうか、祐輔には自信が無いようにひかりには見えた。


「あの子…『あの時願わなかったことを願ってる』って言ってたよね…」


 ひかりがそう言うと祐輔は考え込んだ。


「なんだろうな…」


 ぽつりとつぶやく祐輔を見て黙り込んだが、ひかりには分かるような気がしていた。
(この時代にしようかどうしようか迷った…って、あの子言ってたわ…。もしかするとあの子…)


 思ったが、ひかりは祐輔にその話はしなかった。


「なんで帰りたがらなかったと思う?」


 グラスの気の抜けたビールを眺めながら祐輔が言った。


「分からないよ…」


 ひかりは一つのことを想像していた。それは祐璃とただ一度一緒にふろに入った夜も思ったことだった。大好きな両親のいた時に戻りたくない、という理由――。


「分からないよ…」


 ひかりはもう一度呟いた。そのクラス会以後祐輔とは会っていない。「私の誕生日知っててくれたんだね」と、言いたかったがそれも言わなかった。言わなくともいいような気がしたのだ。
 バス停は朝の通勤客で列ができている。その中に並んでバスを待つ。バスは祐璃が現れ、去った浜通りを見ながら坂を上っていく。カーブを曲がれば母校が丘の上に見えてくる。峠は小さなもので、越えれば隣の市だ。今春短大を卒業したひかりは、図書館司書となるべく市の図書館で研修を受け始めた。忙しい毎日だが充実している。帰りは毎日夜の九時ころだ。帰りのバスに乗ると沖合にイカ釣り漁船の集魚灯を見ながら丘を越える。この日、ひかりは高校前のバス停で下車した。高校時代はほんの数年前であるにもかかわらず、坂には立派な歩道と街灯が出来ていた。気づいた時には、身の回りの色々な事が変わっている。

 歩いて坂を下りていく。カーブを過ぎると展望台があり、傍らには浜に下りていく道も変わらずある。ひかりはがガードレールに腰を下ろし、海を見た。夏休みも過ぎ、海の家はすでに閉まっていたが、いくつかのグループが明かりをつけて夜の海を楽しんでいるのが眼下に見えた。


「祐璃ちゃん…」


 その名を呟くとき、ひかりは決まって胸に熱いものが込み上げてくる。いつか会う自分の娘の名は、ひかりを支える呪文のようにいつも心にあった。


「あなたが居た未来…。あなたが帰りたくなかった未来――」


 想像だった。だが、ひかりはその想像が正しいだろうと思っていた。


「あなたが選ばなかったもう一つの願い…それって、もしかしたら何かとても大切な時間なんでしょう?きっと…私と祐輔にかかわるすごく大切な分かれ道か何かで、あなたはここからそこへ向かおうとしたんじゃないかなって私は思うの…」


 そうだとしてもなぜ最初にそれを選ばなかったのか、ひかりには分からない。磯の香りが鼻をくすぐった。波の音はあの日の雨の夕方と同じく優しく聞こえる。


「祐輔…私と結婚してね?祐璃ちゃんとした約束は絶対だよ?あの子を産もうね?育てようね?…ね、祐輔…。何があってもそうしようね?」


 帰ったら祐輔にまた手紙を出そう、と決めてひかりはその場を離れた。書き出しは決まっている。「あなたへ、そして遠い私と私の女の子へ」だ。一通は祐輔に、そしてもう二通は未来の自分と祐璃それぞれに。
 遠く聞こえる海鳴りがあの日、風呂で祐璃の歌った見知らぬ曲のように静かに響く。ひかりはもう一度呟いた。いつか自分の身体の中に宿り、生まれるであろう物語を思った。


「祐璃ちゃん…わたしの未来の赤ちゃん…」