
※今回の記事はほんとに勝手な『僕論』が展開されてしまっています。
面白いクチコミネタだと思い、つながりを覗いてみると、結構地獄を見てみたいと言う人が多くてびっくりしました。
でも僕は、地獄を見たくない。
地獄や天国という存在を肯定すること自体抵抗がありますが…それを除いても僕は地獄を見たくない。
きっと地獄は壮絶な場所なんだろう。
僕たちが想像している以上に。
もし、僕らのイメージ通りに針山地獄があるのだとしたら、僕はそこに刺さっている人を見てぞっとするだろう。
もし、釜茹でのお風呂があるとしたら、僕はそこに沈む人を見て恐怖におののくだろう。
もし、鬼の奴隷として生きるのなら、僕はそこで働く人を見て生きる力を失うだろう。
僕はこの世界を見て耐えられない。
こんな世界を見て、人は生きる力を得るのだろうか。
ここに来ないためにも必死に生きようとするのだろうか。
だとしたら、僕は現実のそんな生活の方がよっぽど地獄だと思ってしまう。
たった一分でも、いや、たった一分だからこそ見てはいけない世界がそこにはあるきがする。
そもそも、さっきも言ったように僕は地獄や天国と言う存在をまるまる肯定するつもりは全く無い。
そういった世界観を持つことはイイコトかもしれないが、果たして天国は良いところなのでしょうか。
僕はこう思うのです。
天国は『無』の世界だと。
何もないということは、つまらない世界だと感じる。しかし、それは何かがある世界に生きているからこそである。
もし、何も無いところで、心も体も無い世界だとしたら、それはひとつの幸せなのかもしれない。
何も考えずにすむから。
楽しいことは無い。けれど、苦しいことも無い。そもそも、感情すらない。
感情すらないから感情が無くてもつまらないとも怖いとも感じない。
気持ちに変化をもたないというのはひとつの幸せではあるのかもしれない。
そう考えれば、天国はまさに天国だ。
地獄も『無』の世界だと思う。
痛みも無い。苦痛も無い。それ故、何も無い。痛みに対する恐怖も、憎しみも、後悔も無い。それはそれでひとつの苦しみであるが、何も無いのだから恐怖を感じない。
つまり、僕の中では天国も地獄も無い。
死は『無』でしかないのだから。
これは以前、似たようなことを言ったかもしれませんが、
ではなぜ死んだ人を供養するのかというと、あの儀式は僕たちの心を安らかにする儀式であるとおもうから。
おじいちゃんに話しかけるのは、天国へじゃない、僕の心へ話しかける。
おじいちゃんを家へ迎えるのでは無い、僕の心が忘れないためにおじいちゃんを心から引っ張り出すのだ。
幽霊になるのでも、天国で豪遊するのでもない。死とは無である。だから死ぬことは怖いのだ。
だってそうでも考えないと…幽白やドラゴンボールのような地獄や天国だったなら、僕はどちらへ進んでも笑って過ごしてしまいそうですから。
ふぅ…
僕の残念なことは、くだらないことを真剣に考えてしまうこと。
友達も真剣に話をするから話がだんだんそれて行き、バカな話になっていく…
今度友達とこのネタについて激論を交わそうと思います♪
あぁ…これでいいのか。これでいいのだ…