映画「善き人のためのソナタ」を観た。



ティアドロップス☆☆

原題は「他人の生活」

でも、邦題の「善き人のためのソナタ」の方がタイトルにふさわしい気がする。


舞台はまだ東西分裂時の東ドイツ。

社会主義国家のもとで、厳しい思想弾圧が行われている。


危険思想を持っていそうな人間を監視し、国家に背く行為を行ったら即取り締まるのは国家保安省(シュタージ)。


主人公は、シュタージの優秀なキャリア組、ヴィースラー大尉。

社会主義国家に忠誠を誓い、反逆者は冷酷に容赦なく追い詰める。


ヴィースラーの新しい任務は、劇作家のドライマンと、その恋人で女優のクリスタを監視すること。

ドライマンの部屋に盗聴器をしかけ、昼夜問わず二人の生活の様子を聞く。


最初は任務に忠実だったヴィースラーだけど、段々その心境に変化があらわれ…ってストーリー。


今観終わったばかりなので、感想をうまく書ける自信がないんだけど、とりあえず思いの丈を…。(ネタバレあり)


まず驚いたのは、自分の生まれた後のドイツが現実にこういう状況だったこと。

今でも終戦記念日とかになると、戦争のドラマとか特集とかやるけど、そういうの目にする度に平和な時代に生まれてよかった…って思ってしまうんだけど。

世界では、自分の生まれた後にも、抑圧され、自由な思想や言論が許されない国があったこと。(勿論今でもあるんだけど、今のドイツは当時とは全然別だから、こんな状況がつい最近まであったことに驚いてしまった)


ベルリンの壁崩壊のときはまだ小さかったから、テレビで人々が熱狂的に騒いで、花火がばんばん打ち上げられて、その後誰かのお土産でベルリンの壁のかけらをもらった(誰にもらったのかもどこに行ったのかも覚えてないけど)位しか記憶がなく、崩壊が何を意味していたのか当時は全く分かっていなかった。


この映画が作られるまでに、一体どれほどの悲しみと、人々の戦いがあったことか…。


そして、争いをなくすことの一番の方法は、やっぱり“相手を知ること”に他ならないと思った。


ヴィースラーが段々心を動かされていったのはなぜか。


ヴィースラーにとって、それまで反逆者は“反逆者”というただの顔のない人たちにすぎなかったのだろう。

顔のない相手は自分にとってはモノと同じようなものだ。


例えば戦争で、憎むのは国。銃を向ける相手も顔のない国の一部。

でも、その相手が何が好きで、どんな家族がいて、どんな人生を過ごしてきて、どんなときに笑うのか、知ってしまったら、ためらわずに引鉄をひくことなんかできるだろうか。

自分と同じように心があると知ってしまったら、心をなくしてその相手と接することなどできやしない。


ヴィースラーは、ドライマンとクリスタを監視することで、二人をどんどん知ってしまうのだ。


ドライマンが、反国家主義の友達を大切に思っていること、でもどうにも出来なくて苦しんでいること、抑圧された体制の中で、矛盾を抱えながらも芸術を追い求めていること、クリスタとの愛に満ちた生活。


クリスタが、体制主義のもとで将来に不安を抱いていること。

心の弱さから、クスリに手を出していること。ドライマンを愛しながらも自己保身のために権力者に身を売っている事…。


ヴィースラー自身は、家族も愛する人もいない、信頼できる友人もいない、生活を潤う芸術も楽しみも何もない。

ただ薄汚れた屋根裏部屋で二人の生活を盗聴している。国家のために。キャリアのために。


そんな生き方をしてきた彼が、ドライマンが、自殺した友人から贈られた楽譜“善き人のためのソナタ”をピアノで弾くのを盗聴器を通して聞いたとき…。


ただの監視相手だった二人が、ただ愛と芸術を渇望している、弱さと美しさに満ちた善良な人たちであることを知るのだ。


知らず知らず、二人に心寄り沿い、二人を守りたいを思うようになるヴィースラー。


それからのヴィースラーの行動は…ただひたすらに美しかった。

自分の立場を知らせることも、自分の行動だと知らせることもなく、ただただ陰で二人を守る。

(クリスタにはきっと恋をしていたんだろうな)


「見逃すのは今回だけだ」と自分に言い聞かせながら、どんどん人間の心を取り戻していく。


象徴的なのは、エレベータで子供と話すシーン。


何も知らない子供が、「おじさんはシュタージの人?シュタージの人は友達を捕まえる悪い人だってパパがいってたよ」と聞く。

それまでのヴィースラーだったら、子供に父親の名前を聞き、反逆者として報告していただろう。


でも彼は、「名前を教えてくれないか、君の…」まで言いかけたところで口を閉ざしてしまう。

不思議に思った子供が「僕の名前?」と聞いたら、ためらって、「君の…君のボールの名前だ」と、苦し紛れに子供が持ってるボールの名前を聞くのだ。


彼の行動は、最後まで一貫していた。

自分の存在を二人に知らせる必要などない。ただ人間の良心に従って、行動するだけ。

見返りも何も求めない。


最後に上司にばれて、それまでのキャリア街道から、手紙の開封係という屈辱的な職場に異動させられても、表情一つ変えず受け入れる。

終盤で、淡々と手紙を配るヴィースラーの、無表情なのに孤独に満ちた姿と来たら…。


だからこそ、ラストシーンの救いが胸を打つのだ。


体制が崩れた後、ひょんなことから、ドライマンは自分が常に監視されていたことを知る。

それなのに最後まで逮捕されなかったのはなぜなのか・・・。


記録を調べ、初めてヴィースラーの存在と、彼が虚偽の報告で自分を守ってくれていたことを知る。

報告書に無造作についていた朱色のインクを見たとき、私の涙腺も大打撃ううっ...


話が前後するけど、朱色のインクの説明をすると…。


反体制主義の友人の自殺で、国家にはむかうことを決意したドライマン、西ドイツの雑誌に匿名で寄稿するための文章を書く。

当時はタイプライターで打った文字がそのまま掲載されるので、タイプライターの種類で誰が書いたのか足がつく可能性がある。


なので、西側の人間が用意してくれたタイプライターを使ったドライマン、いつ捜査の目が自分にむいてもいいように、タイプライターは使わないときは床下に隠しておいた。

それを知っていたのは恋人のクリスタ。


ヴィースラーの嘘の報告を怪しいと思いはじめていたシュタージの人間は、なんとしてもドライマンの尻尾を掴もうと、薬物所持の罪で恋人のクリスタを逮捕する。

釈放されたかったらタイプライターのありかを吐けと言う取調べに、クリスタは白状してしまう。(あああ…汗


シュタージの捜査官たちがドライマンの家に向かう前に、ヴィースラーは一人で先にドライマンの家に忍び込み、タイプライターを隠してあげるのだ。

捜査官達が家に行ってクリスタの言ったとおりの床を探しても、タイプライターは見つからない。


なぜタイプライターが隠したはずの場所にないのかは、最後までドライマンにとっても謎のままだったけど、とりあえずタイプライターが見つからなかったお陰でドライマンは証拠なしで逮捕されなかったのだ。


そしてこのタイプライターは、触ると朱色のインクが手についてしまう。


ドライマンは、後年ヴィースラーの報告書の最後のページについていた朱色のインクを見て気付くのだ。

タイプライターをこっそり隠してくれたのが自分をずっと監視していた捜査官だったことに。


ヴィースラーの素性を教えてもらったドライマン、対面を果たすのかと思いきや、ただ遠くから、左遷されて手紙を黙々と配っているヴィースラーの姿を遠くから観るだけ。

そのままドライマンは車にのって去り、彼らは劇中一度も言葉を交わすことなく終わる。


それから数年が経ち…相変わらず手紙配りの仕事をしているヴィースラー。

本屋の前を通りかかったとき、ドライマンの新刊が出版されているのを目にする。


タイトルは、「善き人のためのソナタ」。


本屋に入ってページを繰ると、冒頭にある一文が…。

無表情のまま、その本をレジに持っていくヴィースラー。


「贈り物ですか?」と店員に聞かれ、「いや。僕のための本だ。」と。


そのときの、ヴィースラーの目にかすかに宿る誇らしげな光…。


もう~~~~~~~~やばいっっっっっ!!!!!!ううっ...ううっ...ううっ...


ドライマンが報告書でヴィースラーの存在を知るところから刺激されてた涙腺、「善き人のためのソナタ」の一文をヴィースラーが目にしたときにはこらえきれず嗚咽がもれてしまったくらい。


すごく静かなんだけど、珠玉のような美しさの作品。


人間の弱さ、醜さ、美しさ、強さが絡み合って…。一人ひとりの人間は脆弱な生き物だけど、それでも美しく生きていこうとする人を優しい眼差しで淡々と描いている。


主役のヴィースラーを演じた役者さんの名演キラキラ

無口で無表情なのに、目やかすかな仕草だけで感情の動きを表現している。

強いのに孤独で…あのあとヴィースラーが幸せな人生を歩んでいければいいんだけど…。


そしてドライマンを演じた役者さん、どっかでみたことあるなと思ったら「飛ぶ教室」で禁煙さんを演じてた人だひらめき電球

この人もね~いかにも、周りから当たり前のように愛されて守られるドライマンを好演してたな。


あと体制崩壊のきっかけとなるゴルビーの新聞記事のシーンでは、その後の歴史を知ってるので「ゴルビーっっ悔し泣き」って救いの神にみえた…。


「善き人のためのソナタ」素晴らしい映画だった。

ぜひ一度ご覧あれビックリマーク(ここまでネタばらしといてなんだけども…)