成熟しきった大人になってからのスタートだからこそ、大切なものを見失わず、そして、周りも引き込みながら皆が幸せになれる世界をつくり続ける彼の魂のロックを皆にも聴いてもらいたいと思います。
赤鹿友則
赤鹿 友則(ステージネーム 浮雲「うきぐも」
★ヒストリー
11月29日61歳
(20~40歳)
・学生時代にパンクバンドでギター担当
・就職と同時に音楽バンド活動をやめる。
・就職にて国内生命保険会社のマネージャーになる。
当時全国で1000店舗あった営業所の中で年間業績トップマネージャーを目指す。
紆余曲折しながら36歳で全国制覇トップマネージャーになる。(前途洋々)
・しかしながら、トップになると同時に人生に迷いだす。このまま管理職で出世してい
く・・?これでいいのか??もっと自分の力を試してみたい思いに駆られる。
39歳で退職
・一営業マンとして自分を見つめなおすために転職(年収半減)
・マイホームのローン、子供2人の教育費を抱えて貯蓄も底をつき極貧生活
・一発逆転を画策しなければならない事態になる(40歳~45歳)
・「そうだ!曲を作ってヒットすればいいじゃないか!!それで一発逆転できる!」
仕事の傍ら音楽に取り組むことになる。
作った曲をライブバーで歌うことを始める。
・ライブバーで歌いながら、「中年オヤジの復活ライブ企画~加納町フォークジャンボリー(KFJ)」を始める。
このKFJは「かつて若かりし頃音楽をやっていたけれど、就職・結婚などですっかりやらなくなってしまった。
でも機会があればもう一度、人前で歌ってみたい!」そんな人たちの駆け込み寺のイメージでライブ企画を告知し月1回のペースで実施。評判になり1年後には毎回20人近くの中年シンガーが集まり復活ライブを繰り広げるようになり、その後神戸のアマチュアフォーク界では知られた存在になる。
・一方自分自身の音楽に関しては、ソロ弾き語り~アコースティックデュオ「浮雲らいおん」と活動を展開し自主制作CDを作成。浮雲らいおんは年齢差22歳の異色ユニットとして限定的ではあるが注目され読売新聞などメディアで紹介されメジャーデビューを目指す。自主制作CDを多方面にばらまく。
・CDをばらまく中で、京都府舞鶴市が町おこしで作ったインターネットラジオステーション(Mチャンネル)と出会う。CDのオンエア、ストリートライブなどを繰り返し
Mチャンネルで番組を持つこととなる。
・「噂のGIG」という番組タイトルをつけて5年間継続する。(企画・運営・DJ)この番組では、月1回神戸のライブハウスでライブイベント「噂のGIG」を開催し出演者のライブ音源や自主制作音源を配信し、インディーズアーティストの活動を応援する。
番組応援企画として番組で紹介したアーティストの中で特に気に入ったアーティストのCDを東京の音楽プロダクションに直接持ち込み、メジャーデビューのきっかけづくりを行う。すべてボランティア。経費がかさむ割に反応悪し。2005年当時では
インターネットラジオはまだ普及しておらず、限界を感じ5年で番組を打ち切ることにした。
・(46歳~現在)
・「浮雲らいおん」なかなか芽が出ず、相方のらいおんが独立を希望し、あえなく解散。
※相方のらいおん~現在ロンドンブーツの田村淳のそっくりさんとして「ロンフーあつし」名で売り出し中。
・音楽的には多方面で動くが、私生活の経済的側面(貧乏状態)は全く改善されず、
再度転職にチャレンジする。この転職にて経済状況は好転。家のローンと子供の教育費の目途が立つようになる。
・「浮雲らいおん」解散と同時に、エレキ弾き語り「新宿バリケード」を始める。
スタートはヘルプのドラムをバックに二人組でライブ活動を開始する。再度メジャーデビューを目指す旅に出る。
・デモ音源を作成し、ばらまく。
・ばらまく中、東京MXテレビの音楽番組が好意的に受け止めてくれて2度番組内で
紹介、ライブ収録の放映を行ってくれる。某プロダクションの社長がすごく気に入ってくれてデビューのオファーを頂く。
・デビューに関しては、当時2度目の転職を決めた直後であること、副業が禁止されていたことにより踏み切れず断念し、お断りをする。
・「新宿バリケード」で真剣にメジャーデビューを目指す。46歳。
・以後、ベース、キーボードとメンバーが増え、神戸、大阪を中心に活動を継続して
現在に至る~ただし、いまだメジャーデビューせず下積み時代を続行中。
・バンドの自主企画ライブイベント「ミナトガワmusicコンビナート(MMK)」を2012年から開始。
毎年5月、バンドの本拠地神戸市新開地湊川にてミナトガワを拠点に活動するアーティストたちが一堂に会するオムニバスイベント(10時間ロングランイベント)を企画、開催し、アーティスト同士の交流と彼らの音楽の紹介を通じて音楽による町の活性化に取り組む。
このMMKは現在では地元を代表する音楽イベントに成長し、毎年多くのファンが楽しみにしている(自画自賛)
★現在の活動
還暦をとうに過ぎたフロント浮雲をドラムKJ
キーボードleki が支える3ピースで「新宿バリケード」を継続中。
還暦を過ぎたが、あくまでもメジャー進出の野望は捨てず新曲づくりに精を出す日々。
★今後の活動
とにかく継続することが大切。継続するところにチャンスがある。ライブの数は減っても新曲は常に作り続け、練習は怠らない。いつ、いかなるオファーが来ても即対応できる状態をキープしておくことが必要である。
SNSにもチャレンジして多くの人に「新宿バリケード」の曲を届けたい。
★想い
振り返ると、音楽に関しては、39歳の転職の失敗(経済的な面)がすべての始まり。
極貧状態から抜け出したい一心で曲を作り始め、弾き語りを始めた。あの転職がそこそこうまくいっていたら、音楽に手を伸ばすことはなかった。それと、あの時「ヒット曲を作って一発逆転したらいいじゃないか!」と自分の音楽的才能は無視して、「必ず成し遂げる!」という強い思い込みを持てたのも極貧生活のおかげ。おかげで、オリジナル曲ゼロから今では100曲を超える曲を作っている。自分を鼓舞しながら活動を続ける中で、仕事だけでは決して出会えないたくさんの人や出来事、喜び、経験をたくさん
もらった。同時にチャレンジ精神も養えた。そのおかげで46歳からの転職にもチャレンジし経済的には大逆転できた。
やはり「思いがすべて」と実感する。
還暦を過ぎても、自分のバンドを持ち新曲を作りライブ活動を継続している。それに
何よりもそんなフロントを支えてくれるバンドメンバーの存在。感謝しかない。
こんなことを考えると、年老いたからと言ってメジャー進出をあきらめるわけにはいかない。それがすべてとは思わないが、いくつになってもクリエイターであり続ける限り
作品を世に出す。ならば、より多くの人に届けたい。触れて頂きたい。それができるのがメジャー進出。
それと、自分の作る曲が誰かの心の安らぎに貢献できればと思うし、新宿バリケードの
ライブが、見る人たちの心の幸せになれば、、、とも思う。
「新宿バリケード」は神戸で活動する一介のインデイーズバンドにすぎないけれど、
16年間の活動の裏には数えきれない出来事、心の葛藤、挫折感やチャレンジが存在している。それがバンドの味となり、曲作りのスパイスになって一人でも多くの人の幸せに貢献できればーと、本気で思っている。
60を過ぎて思うことは、やはり夢を持つ人生は楽しいし面白いですね。
夢が叶うか叶わないかはわかりませんが、真剣に取り組めば取り組むほど、思いもよらない経験が舞い込んでくるんですね。それだけ人生は豊かになります。
それが他人から見ればバカげた夢であっても。40過ぎてから音楽を始めて「メジャーになる!」と言ってるとよく人から笑われました。でも60過ぎてもバンド活動を継続している私を見て、当時私の夢を笑ってた人達は「60過ぎても夢を持って、ライブ
活動を続けているなんて羨ましい。」と言います。
本人はいつも試行錯誤で葛藤して、いい気になったり落ち込んだりの繰り返しで
大変ですが。
そんなことも今の若い人たちに教えてあげたく思います。便利な時代になっていますが
なんとなく窮屈な時代にも思えます。夢なんか持てない国と感じている若い人も多いのではないでしょうか?時代が変わろうが、世間が、世相が変わろうが、夢を持つことは
人間の特権です。それに、何よりも夢を持つこと、それ自体にはお金もいらないですしね。年を重ねるごとに既成概念で自分の夢に蓋をしてしまうことがないように。
それと、私が夢を追い続けていると、不思議にいろんな人たちが集まってきます。
というか、私に巻き込まれてくるんですね。で、私が、いろんな企画をやるたびに
参加した人たちが「楽しかった!」と喜んでいるんですね。
私が夢を追いかけることで、周囲の人たち、それに関わる人たちが幸せな気分になっているのです。こんなことも夢の持つ力なんですね。自分だけの夢が他人を幸せにする。
素敵なことだと思います。
こう考えると、夢を持つ価値は凄いものがあると思えます。たとえ叶わずにこの世を去る日が来ても、たくさんの人に幸せな瞬間を分けてあげられたなら悔いはないでしょうし凄い達成感に包まれると思います。
これからも「メジャー進出」の旗を上げ続け音楽活動を継続していきたく思います。
「新宿バリケード」を宜しくお願いします。
もうすぐ61ですが、夢はメジャーデビューです!!