「政治は難しいのだ・・・」というキシリア様の声が頭の中でこだまする。子どもの時は対して意味を感じなかったアニメのセリフ、大人になって身に染みる時ってありますよね?

 自治体システムの標準化移行さえしてしてしまえば、国の突然の政策決定でアワアワすることは無くなると思っていた時期が僕にもありました。けれども高市政権が打ち出した物価高子育て応援手当とかの動きを見るに、「こいつら全然標準化の文脈に乗せるつもりねぇ」と思い始めた訳だ。

 介護保険の定期的な見直しとか、そういうものであれば標準化の目指す改修が行われるような気がしますが、結局はそれだけでは収まらないらしい。何故かというと政治っていうのは予定調和だとどうにも喜ばれないようで、そこには行政効率を至上命題とする事務方から見ると大変迷惑で理解しがたい話ではあるのですが、結局はサプライズ的な何かが求められるようだと、普遍的に。そうお前の嫁さんを喜ばせるために誕生日にサプライズプレゼントを贈る如くの配慮みたいな話だ。つまりは政治及び行政も、何らかのエンターテイメントを提供しなきゃ喜んでくれないのだ。

 システム標準化というのはエンターテイメント要素をトコトン削ぎ落としたもので、求められるのは中長期的な「予定調和」だったりする。この辺、私らの所属する組織なんかからすると求めてやまない方針ではあるんだけど、まぁエンターテイメントという点ではつまらないよね。新型コロナの時のあのスッタモンダは、政治・行政に対する批判が相当あがったんだけど、一方であれは一つの政治的エンターテイメントでもあったらしい。皆さん楽しんでいただけましたでしょうか?

 で、ここで我々として困るのは、開発ベンダの多くが「標準化やれというから、そのドクトリンに乗ったのであり、エンターテイメントにはお付き合いできません。そんな組織や体制も構築しておりません。では、さよなら。」とお別れを告げられちゃうかもしれないこと。うん、まぁそうだよね、自治体システム分野は縮退均衡を図れって話だもんね。で、そのような理屈と現実の隙間は、我々のような木っ端役人が埋め合わせて何とか収支を合わせなきゃ行けないってことなんでしょうか。まぁそうなんでしょうね。

 もちろん、その埋め合わせの策はいくつか無くはないですよ?でも、どれも時間がかかんですよ。てな訳で自分の生きているうちにやり切れるのかという切実な気持ちになりつつあります。

 翻って、そんなところにエンターテイメントを求めるなよ、と言いたいところだけど、政治というのが所謂人気商売であるからには、人々に楽しんでもらってなんぼというのもある程度趣向せざるを得ないのだろうと自分を納得させなければと考え、今日も仕事に精進する自分は、大人を通り越して老境に差し掛かるっているのだなと、切なさでいっぱいです。
 

 もう皆の記憶からすっかり忘れつつある石破政権でありますが。ゲル首相の最後の功績として、一際極彩色の光を放ちつつ、その最後を彩っといえるでしょう。
 演説そのものは動画見られますので是非直接御覧になっていただきたく、ここではそこまで細かく記載はしません。皆心して聞くように。
石破首相、戦後80年の所感を発表

 彼の演説が今までのそれと大きく違うのは、大戦の結果に対する、ではなく経過に強く言及したことでしょう。もちろんその経過については、どちらかというと経済的というか政治システムというか、まぁ制度的側面から語っており、当時の日本の思想面(他国に対する横暴な政治思想的態度はどこからきているのか)については深く言及されていません。それでもあの戦争はいったい「どこから、どういう経緯でやってきたのか」についてその多くの時間を使い語ったことについては称賛に値します。というか、今までがそういうの無さすぎだ。

 翻って、左派や日教組がやってきた平和主義なり平和教育というのは単なる自分の考えの押し付けに過ぎず、極論すれば洗脳したに過ぎない、重要な過程を飛ばして結論だけを教える、否定的考えを許容しない、教育とは言えない手法だと言えます。お前らのやっていることで違うのは押し付けたい内容だけであり、結局は戦前の思想教育そのものであり、だからこそ状況が変わればあっという間に風向きが変わる不確かなものだと。時代の風向きに左右されず、本当に残されるものは肯定・否定を交えた思考の末にたどり着いた結論であり、その思考の過程だろう。

 まずは結論ありきではなく、日本のやってきた結果は本当に間違っていたのか、それを考えさせなければならないはずだ。大抵のものは全て間違っているなんてことはないんだから、一体何が正しいか、何が間違っていたか考えさせなければ。その上で間違っていたという結論に至ったのであれば、石破さんの言うとおりに何故そこに向かってしまったのか、避け得る方法はあったのかを考えさせなければいけない。

 石破さんも言及していますが、極端な排外主義は純粋であるが故に魅力的であるが、人類が営々と築き上げてきた歴史の結論を否定するものだろう。こういう考え方こそ歴史に学ばない国家というものだと。政治的主張は分かりやすく敵を作れば人気が出るなんて、もう100年前から言われていることであり、そしてそんな人気は何も問題を解決しない。地味で複雑で時間の係る思考の積み重ねこそが健全な政治の所作であるべきだ。

 今揉めている中国、相手を避難し否定することは簡単だ。でも歴史はそれを否定している。彼らの言わんとしていること、伝えようとしていることを理解し、その前提となる政治状況や社会情勢を理解し、同意すべき・改善すべきはそのようにし、否定すべき点については丁寧に理解を得られるようにそれを伝える。それも彼らの文化的背景を考慮したうえでだ。それが物を解決する政治であり外交であり、それを後押しできる国民こそ真の国際人足り得るのではないか。

「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。」は至言だが、これは政治家だけが持つべき矜持じゃないよ、人として普遍的に持つべきものだよ。

 私自身総務的な立ち位置にいるんですが、仕事をやっていく中での悩みの半分は、当課専管(情報系)のとある新規の業務を引き取るか現場に任せるかというところがあります。そしてこれは永遠に解決しない悩みでもあったりします。ポップフライ、レフトが取るかショートが取るのが正解みたいなもんだいです(そうか?)
 

 現場からすると「何で引き受けてくれないの?そのための専門家集団でしょ!」と思われると思うのですが、コトはそこまで単純じゃねぇ。そもそも急にやれと言われても、それをやる能力持った人員いねえよ、というか人自体いねえよというのが大半なんですが。しょうがない僕古田代打俺的な感じで自分がやるにしてもだよ、色々な部分を考慮すると二の足を踏 んで躊躇してしまうことも多い。
 

 一番の悩みどころが、「その業務に対するニーズ」みたいなものがフロントでないと判断しづらいというのがある。というかニーズあるかないかは現場が決めることだし、バックオフィス系だとそれを把握するための別の仕事が必要だったりする。現場であれば、やってみてニーズがねぇとか他のやり方の方がいいかな、みたいなことを考えながら進めることができる。やっていくうちにニーズの総量が変化し、それに対して投入するリソースも変化させることができる。
 

 新規業務っていうのは、常に撤退戦も考慮しながら進んでいるところがあって、これを総務的なところに割り振った瞬間に、もはや前進しかねぇみたいな状態になるのであり、前方にスゲェ塹壕があって、恐らく十字砲火を食らっちゃうような気がするんですけどどうしましょうって、後方司令官の方を見てみるともはやこちらに関心など無く、別方面に視線を固定しており、それはもはや「分かっちゃいるけど、色々あるので、まぁそこで死んでくれや」みたいなメッセージっぽい。撤退というのはそこに反省の弁と懲罰が加わるので、自分事でなければ皆関わろうとしないのである。戦いは非常だよ兄貴。
 

 もちろん、なんやらその自分の得意でない業務を丸投げしてスッキリしたいという、お前のその無責任さが気に食わねぇというのも個人的にはあるんですが、ただ一方で確かに現場が、例えばAIのような専門性の高い分野で二の足を踏むようなのも、全体組織目標を考えた場合好ましいところではなく、またそこに似たような技術を使った別方面の政策か何かがあった場合は、これはもう当方の戦域として持ってしまった方がいいのではないかという判断も、先々を考えるとありかなと思ったりするので、ある程度のコミットメントはせざるを得ない。

 つまり何が言いたいというとだな、そこでの正解は1か0ではなく、関わり方の問題であるという結論に至るわけである。その上で、業務(のニーズ)がある程度固定化したら引き取って集約してしまうという感じじゃねぇかなと。逆に全体に関わるような話なので案件が暴れないうちに当方のコントロールに入れてしまった方がいいかな、という感じがしなくもねぇ。あと色々人に好かれたいしモテモテになりたいし。というわけで本日も平常運転で悩んでおります。

 

 

 福祉系にどっぷりの人とお話すると、どうしても違和感を感じてしまうという話。

 よく「生活に困っている人のための援助をしないと」「高齢者のための施設が必要」「障害者のために医療的な扶助が必要」とか、枚挙に暇はありませんが、色々と金のかかる話を持ってくる。で、意図しているのかどうかわからないけど、そのための財源ということについては分かっていない、または分かっていて触れない、そういう議論において非常に重要な部分が抜けてしまうことに非常に懸念を感じています。
 改めて説明しますが、日本という国の生産力は、例えば2025年が100だとしたら、借金しようが何しようが国全体で100しかない。国ができることは資源配分を行い、例えば100を110にする、これは橋等の公共財を作ること。もう一つできることは所得再配分で、例えばAさんが90の持ち分で、Bさんが10の持ち分だったとすると、これをAさん80、Bさん20などにかえることで、これは生活保護制度のようなもの。両方とも徴税という制度を通して行われている。

 もちろん議会とかで話をするときに、当然「そのための財源は・・・」みたいな話の展開になるので、ここまでくるとその辺を当然は意識し始めるのですが、自分の福祉的な支援を求める人またはそこが所属する団体というのは、この辺を語ろうとはしない。一方的。その話って「おいお前ら、その辺の所得者から10万円分捕ってきて、それを自分たちに寄越せ」と言われているように感じる。言われては言わないのだが、実質そういうことである。
 パイの取り合いの話をしているんですよね、と詰め寄るとモゴモゴし始める。そりゃだれそれの金を分捕ってという話になると色々と摩擦が大きくなるからあれだけど、その辺を曖昧にされると正確な政策判断の正当性が一気に下がる。一時的な借金をすれば、てきなことを言っている人もいる。これは、時差をおいて必ず誰かに配分されるべきものを奪っているのは間違いない。そうでなければ結局は単なる分捕りになるから。金なんていうのは、使用できる資源に札を付けるだけの存在であって、2025年で利用できる資源というのは100っつたら100しかないんですよ。

 かつてのアメリカ合衆国はアメリカ独立戦争時に「議会なければ税金無し」とイギリス国王に申し入れたそうな。これは勝手に俺等の稼ぎを巻き上げんじゃねぇという、議会制民主主義の原点みたいな話だが、財源論なき福祉制度拡充は、その振る舞いがイギリス国王に被るじゃないですか。えっ、あんた王様?
 その手の福祉的要求をしてくる人たちって「国家」への要求が多いのに反比例して「国家」というものに基本敵対的で、そこから金を奪う感覚で財源を用意しろというノリなんですが、所得再配分という観点で言えば、国家なんて客体は無いわけで単なる経由地であり、徴収対象は国民であり市民であり、そういう人から金を巻き上げるって話なんだよ、コノヤロウ。
 国家の資源が現状維持、下手すれば縮小していくこの人口減の時代では、もはや筋の通った財源議論無しに政策の決められないと、全ての人に理解してもらえないと色々とはかどらないよな、と思っている次第です。そういう点では共産党というのはその辺のブンドリ感を隠そうとはしない(大企業から金を取れ、的なやつ)ので、清々しくはあるのですが。あそこは割と全周囲的に戦っている感があって分かりやすい。いや困るけどね。
 つまり何が言いたいかというと、今後私にこのような要求をする場合は、その前段で「市民一人当たり毎年◯◯万円を分捕った上で」という説明を必ず前置しておくように、シクヨロ。

 

 主に委託契約、つまり形のない成果物を求めるタイプの契約に限ったことなんですけどね。
 一般競争入札というのは、皆さん御存知の通り任意の委託案件について入札を行い、一番お安いところが落札をするというものですが、ものの性質として安かろう悪かろうになりやすい。まぁそれはそうですよね。人間の行動というものがホモエコノミカルであるという前提で考えると、委託仕様書に書いているところを、必要最低限で対応し、如何にお安く済ませるかについて全力で努力するわけですよ。仕様で詳細にしばれといますが、細かくするには労力がいるし、細かく書くには業務の内容を詳細に知らなければならない。それこそ自分でもできるぐらい。でも最近の委託契約ってできないことを外部にやらせることが一般的で、委託する側なんて放り投げ状態が多い。細かく書けば書くほど融通も効きづらくなってくるしね。
 で、この問題を回避するために総合評価一般競争入札というものがある。ただこれがまぁ偉い手間であり、評価基準とか作るのは手間であり委員会を開くのは地獄であり、外部委員とか揃えるのはもう気が遠くなりそうである。報酬も払わないと行けないし。
 つまりはガチガチ過ぎて応用が効かなすぎて、返って行政側が損をする状態になる。
 もっと行政側が柔軟に契約できる(それこそ明確な理由を示さず任意で)ようにしたほうがいいと思うんだよね。これは繰り返しゲームなんですよ。ゲームの理論で言えば、1回切りの契約であれば、裏切りが最上手だけど、継続的に行われる場合は最善を尽くすのが最善手になる。これは契約内容を顧客が満足の行く内容に処理することができれば、次の契約を取ることも期待できるから。
 で、そうすると悪いことする奴がでてくるというけど、そりゃでてくるよ。でも事後監査入れて検挙しちゃえばいいんだよ、そういうやつは。また検挙しやすいように、第三者が証拠を上げやすいような仕組みを最初から組み込んどきゃいいんだよ。

 そもそも昔はいらんと思っていたのかよって話ですが。

 首長がいるんだから、市民の意思の反映はそこでそれなりにしっかり行われるはずだし。だいたいにして議員自体は制作個別についてそこまで詳しいわけではいため、議会において生産性のない質問が繰り返される現状を鑑み、果たして彼らは給料に見合う効果を上げているのか、自らに問うことはあるのか、と甚だ疑問に思っていた次第。自分はいらない存在なんじゃないかと思ったこと無いのかい?と厳しく問い詰めたくそうろうという感じでした。条例作ったりもしないし。できるのに。予算の可決って言ったところで予算が通らないなんてことは基本無いし。

 てなことを思いながら鬱屈としてたんですけど、先だって私が関与してた案件についてはすこぶる常識的な質疑が行われており、で常識的な話なので別段改めて問われるような話でもないよなという風ではあるんですが、実はこれが重要で。普通に考えれば常識的な話が行政の中で通せない場合も実は多く、これが議会から発せられたものであれば、やはりそれなりに重きを置いた対応を内部で通すことができるのであったりする。つまり議員の言葉に乗ってモノを動かせば、それなりに円滑に進んでいきやすいというのを感じ入ったということです。

 

 つまるところ、議会というのは知的で専門家集団であるべしなんてことは一切期待できないんですけんども、それをもって不要な存在と論じるのはちょっと単純すぎるのであり、常識的な事を市民の代弁者として言ってくれれば、改めて我々は市民の従僕でありその言を軽んじてはいけない、手前勝手な対応は許されない、最適な判断というものを守らなければいけないとなるなぁ、思った次第です。意外と我々が進むべき道の羅針盤足り得ると。いやもちろん議員の中にもとんでもない人もいたりするので、そこは是非有権者の皆様になんとかしていただきたい次第ではあります。
 それはそれとしてだけど、議員というのはちと多すぎなのは間違いなく、前から言っている通りベースで5人、10万人あたり1人で十分だろう。だから100万人都市なら5+10で15人ぐらいがいいんじゃないかなと思うんですよね。それ以上だと市民も私も記憶できないんですよ。
 

 国がシステムを開発しようとすると、というか最近は国が標準仕様書を作ったうえで自治体がシステムを作っているわけですが、なんというか凄まじくうまくいかない。国の構想するものなので物が大きく、その図体のでかさが問題を引き起こしているというところももちろんあるんですが、もっとこう、構造的欠陥が存在するように感じています。
 ともかく、開発プロジェクトがまともに進行できていない。で、さらにその原因なんですが、仕様を確定したあとに変えるんですよ、政治が。もうそれはもうチョロチョロチョロチョロと。
 本来であれば日本中を巻き込んでのシステム開発ですから、構築物の仕様を作成したらとりあえず仕様凍結するのが原則です。つまり政策の固定ですね。それができない、じっとしてられない。だから作ってる途中に作る内容の変更が常態化してしまっている。もちろんその手の話が今までまったくなかったわけではなく、ある程度はこなしてたわけですけど、今回は開発規模が大きくて、導入自治体も一斉だしで、小手先のごまかし程度ではどうしようもなく破綻に近い状態になりつつある。
 標準化システムへの移行を成功させたいのだったら仕様を止めておかなければいけないはず。でもその期間って下手すると5年ぐらい必要となる。つまり政策の展開を5年間止めろということなんですが、現状を俯瞰してみれば成立しないことは想像に固くない。そう考えるとシステム標準化とは最初から致命的な失敗要因を内包していたということが言えなくもない。
 仕様を止めることと政治が止まらないということ、この2つの符号合わせは基本的にはできない。実行時にできることといえば政府の主要閣僚にある程度政治を止めてください、といったはなはだ確実性の無いお願いをするしかない。しかもその政治とシステム開発の間を整合性を以て取り持つ中間剤みたいな人材が必要だが、そんな目だたず評価されそうもないパーツに優秀な人材が当てはめられるかというとかなり絶望的な感じがする。一自治体程度の規模ならできなくもないだろうけど。
 概して言えば、この政治に振り回されるというのは行政部分の宿命であり、結局はそれが多いか少ないかであるに過ぎないとも言える。それでも行政側からすれば政治部分の一定程度のコントロールというものは非定型化したテクニックとして持っていなければ、それに対処するためのリソースというのは無尽蔵に必要になってくる。今回は国策の話ではあるが、自治体においてもこの政治機構との会話というのが非常に重要なのだろうと、ひしひしと感じているところです。

 

 

 先日ちょっとした仕事中の小話で、今まで最も効率的に仕事が捗ったときの諸条件てなんだったろう、という話になったわけですが。
 そこでいの一番に浮かんだのは「自分に決定権がある仕事」だったわけです。コロナ前後の異常なシチュエーションで、オーダーは来るけど条件はあまり問われず、下手すると結果自体もあまり問われないという事態になったときが俺史上最高成績を叩き出した年だったなと。それってつまりは上役の管理というものを否定しているという話になるのかと問われ、いや、まぁ、そいういわけではないんですが、結果としてそういうことになっちゃうのかな?その辺はいいじゃないですか、それ以上言わすんじゃねぇよ。
 ここで語りたいのは、今まで上司の無能ぷりでお前ら何で毎月特に問題もなく俺様より給料をもらってよくもまあそんな平気な面していきてるなこの野郎残り少ない毛髪むしり取った上で永久脱毛するぞとか、そういうことではなく。仕事の効果を上げるに当たって最適な組織、及び管理ってなんだろうというのを、ちょっと自分の中で固めておきたかったということです。

 改めて自分に置き換えると、少人数のプロジェクト案件なんかで決定権が大変身近にあったとき(上からの業務要件は大雑把)だったときの業務進行って本当に素晴らしいな、と思い返される。同時に自らもシステム開発を並行して行うので、開発進行なんかも行きつ戻りつ、テスト的に作っては小修正するというのが思いのママ。だって自分の要件だからね。設計書は作るけど、別に誰に見せるわけでもないから正直システムが出来上がってから記録として作ったみたいな感じだったわけです。もちろんこういうのは仕事を引き受けるときに、あらかじめ諸条件として調整しておく必要はあるんですが、上司とはいえ。
 コロナ発災のときなんてもはやチームなんか作れず、完全に個人請負ですよ。しかも要件もほぼお前が決めろ状態。「こんなもんでしょ、いやもう時間もないので修正なんて受け付けませんよ」と押し切れるし、結果ももともと無理案件だから保証を求められないしで、のびのびやった結果としては、ほぼ100点満点の結果を叩き出したわけです。ということで企画から要件確定、工程、作業、出力まで全部一人でできるのが最高ですね。一人で出来きるならね。

 ここまでは確定事項として、さてじゃあ私も人を束ねる人間としてこのような経験をどのように活かせばいいのだろうということを考える必要がある。
 私は、自分は世界で一番仕事ができると思っているフシがあるので、できる限り他の人に自分がやっている仕事に関わってほしくないと思ってるんですけど、多分これってあまり多数派の考えではないのかな?多くの人は周りに人が居ないと死んじゃうとか、そういう寂しんぼが多いような。
 逆に管理者としての私は、根底として部下を信じてな無くて全て自分でやりたい派であり、とは言っても一人じゃやり切れない&そこまで給料もらってませんが、というところで、そうすると如何に部下の能力を最大限に活かすかと、こいつ今一信じきれないな、というせめぎ合いのなか、あり得るべき職員管理とは何かと思い悩む。常にコミットメントを取るなんてお互いうざったらしいし、でも結果報告まで待つともはや手のつけられない状態まで放置されそうだし、月次で巻き取るようにするか、一部はこちらの作業として組入れ、当方の業務感も得ながら進めていくか。
 頭の中では自分を中心とした十数人の部下たちを、有機的に活かすためにはどうすべきかという問いを常に抱いている。こいつらの幾人かはチームを組ませてフォロー仕合せるかとかやると、何か急にあいつ許せねぇぶっ殺すとか相談されてりして、お前ら別に仲良くしろとは言わないけど仕事は仕事として割り切れよ。でも、やっぱり嫌な相手と長時間過ごすのはメンタルに来るし厳しいよね。
 それぞれの個性を配慮しながら、仕事との適正な組み合わせはどうか、将来発生するこの案件を扱わせるためには今のうちにあの研修にいかせたろとか、特に思わぬ成長を見せることに喜ぶと同時に、同じ大人としてその不貞腐れた態度はどうよとがっかりしたりする。
 自分一人で仕事をしていたときには特に何も思わなかった苦労が、組織を束ねると形を変えて苦しませる。まるで多変量回帰分析を解いているかのように、かつ変数が日によって変わっている、つまりは答えの出ない答えを探している状態。
 そこではたと考え方を変えてみる。これってパズルみたいなもんだな、ピースと型枠が常に変化していく。ゲームとして考えれば一生飽きないやつだ、と考えれば何か楽しくなれるのかな?相手は人間だから色々なアプローチがある。脅したり透かしたり宥めたり。コンプラ的には如何なものだけど、何かしらのハラスメントも交えながら搦手でものを進めることの何と奥の深いものか。ものが進まないことにフラストレーションさえ覚えなければリアルゲームとしてこんな奥の深いものもないのかと。
 と、とりとめのない話でしたが、一旦自分の考えを吐き出してしまおうかなと考えたたわけです。面白さを見つけたのか、逃げようがないので無理やり自分を騙しているのかよくわかりませんが、とりあえずこのイカれたゲームにのめり込むしかねぇな、というお話でした。
 

 システム開発というのは、開発をする開発ベンダがいて、そこに開発を依頼する発注者がいるんですが。ところがシステム開発は様々な失敗を積み重ねることになります。で、その2者の間に入ってうまいこと開発を成功させようということでコンサルタントが登場することになります。大規模開発程、コンサルタントが登場しがちです。一方で、そもそも2者でいいところにあえて3者目が入るので、その役割は時に微妙であり、その割には大金積んでるというなんとも煮え切らない存在でもあります。というわけでコンサルタントの存在、その必要性に関する命題は、私のライフワークになりつつありました。

 ところで、ここでゲームチェンジみたいな話が登場します。現在絶賛作業実施中の自治体システム標準化でありますが、とりあえず必要性の確信が今一乏しかったコンサルタントも入れながら進めていまして。で、結果としてですが、これはまぁ標準化ではコンサルタントいらないね、という結論に達したところです。やってみるまで分からないのかと怒られそうですが、やってみないとなかなか踏ん切り付かないんですよ、これが。だって失敗しすると人が死んだりするので。

 もともと、システム開発におけるコンサルタントの意義なんですが、まず最初に必要となる発注仕様書作成というのが一番頼るところだったりするんですよ。これを一から作るというのはまぁなかなかの作業で。なのでコンサルタントが既存にあるものをどこからか持ってきて一部修正して導入するというのは作業効率的にも質的にも好ましかった。しかしシステム標準化の契約仕様書って「システム標準化の機能仕様書通りに作ること」で済んじゃう。更にサーバ構成の設計なんかも、これは至極専門的なところで手を出しにくい分野だったりしたわけですが、クラウド前提になってしまって、かつ開発ベンダ側もこれが御社のデフォルト仕様ですなんて持ってくるものだから脳みそ働かす場面が無くなった。バックアップの手法さえクラウド側で提供してくれるわけです。
 次に頼っていたところの業務要件の取りまとめ作業(契約仕様書にちと被る話ですが)というところも、単発な資料化などはともかく、システム標準化になると体系立てた上で複雑な資料を作る必要性は無い。その辺の体系はシステム標準化機能仕様書に全て書ききっている。つまりコンサルに依頼する程のものは無くなっているしまっていたりする。

 そうなると逆に、今まであったコンサルのクソみたいなものが目についてストレスがMAXとなってくる訳です。一番のストレス源はコンサルタントと発注者の目標がそもそも一致しがたい点。これは双方の立場や技術力に起因するものであり、つまるところそれぞれの利益最大化を図ろうとすれば必然的にそれはズレが発生する、別組織なので。この辺のすり合わせをするというのがまた不毛というか無駄な作業感がすごかったりするので、リアルで不毛になった人もいっぱいいたのではないでしょうか、私はフサフサです。
 ステークスフォルダの調整だって、外部(開発ベンダ)に対してはどうしても発注者とコンサルではスタンスの違いが出てくるし(発注者は一連の中でバーター的な取引を行うこともあるが、コンサルは正論しか言わない)、組織内部調整になるとコンサルでは結局深入りできないもどかしさもあり、つまりは色々とギリギリの調整になってくるとどうしても自分の言葉で話さなければならなくなり、それなら最初から自分で考えて資料作ってた方がノンストレスで良かったんではないかと思ってしまい、全体俯瞰したときの各作業の無駄感に一々打ちひしがれてしまうところ。もう全てにおいて中途半端なんだよお前ら、髪引っこ抜くぞコノヤロウ。ここまでくると、コンサルに打合せの連絡調整するのさえ嫌になり、いよいよ状況は末期を迎えます。

 この辺の不満はコンサルの質によって増減したりはするわけですが。それでも、もともと自治体側のコアコンピタンスみたいなところを他人に任せていたという気持ち悪さもあり、それじゃ組織企画力も下がっちまうしというのもあったり。これがシステム標準化で作業に求められる質なり量のハードルが大分下がってきていて、じゃあちゃんと業務に見合った人を育ててプロパーだけでなんとかしようという気になってきたというところです。今後は真面目に人材育成しなくちゃね。この辺は自治体の規模にもよる訳で、当方割と大所というのもあるわけだけど。でも恐らく当方の能力如何に関係なく、コンサルタントを導入することで何らかのプラスが生じるることは無い(むしろマイナスになるかもしれない)という状態にになってしまったのだと思います。ということで、これから標準化案件に関しては「コンサルいらん」と、色々なところで言ったり書いたりしていこうかと思います。今までの遺恨も含めてな。

 

【河野大臣へのディスリが酷い!】
 さて、以前からひーひー言いながら頑張っております、おなじみのシステム標準化に関してですが、次のような記事がでてきてしまいまいした。

河野太郎氏は「デジタル」をまるで理解していない…大失策のツケを地方に丸投げするデジタル大臣の呆れた実態


 つい最近、関係者界隈でざわついた案件をもとに、システテム標準化はもうだめ→河野太郎はおしまい、というシナリオのもとにまとめた記事となっております。
 さてその具体的な内容というのは、次のデジタル庁が晒している資料で確認することができますので、まぁ読んでみてくださいな。
令和6年度 第1回共通機能等課題検討会

 ね、何が問題か全然分からないでしょ?というわけでピックアップしてみると、
・今までデジタル庁でデータ連携の仕様書作成頑張ってきましたよ。
・ただこのタイミングで、ちょっと難しい問題が発生したよ。
・このタイミングで完全解決を図ろうとすると、既に自分なりの解釈で開発してしまっているところに迷惑をかけるから、一旦各自治体に任せるよ。
・で、最終的な解決は改めて令和8年度以降に図るよ。

てな感じになりました。「99%仕切ったけど、1%余白が残りました。画竜点睛を欠く感じですが、現実解として個々の判断に任せます」というまとめになりますでしょうか。で、この1%部分を巡ってやや炎上しておりますはい。
 より詳細に説明すると、この余白部分は履歴番号と最新フラグの取り扱い、ということになります。これの何が問題かというと・・・もうそれ以上の説明はしませんが、確かに処理決定するにあたっては曖昧さがあっては困るところであるし、連携部分は100%の同一仕様じゃないと問題があるのはそのとおりで、この部分の対応をもって「デジタル庁は仕様の策定作業を自治体にぶん投げた」というように叫ばれても、まぁそれなりの批判はあって然るべき。

 ただ、普通の解釈をすれば、「履歴番号」と「最新フラグ」という2つの項目があるからには、「履歴番号」は業務要件に関係なく最新レコードが発生する事に淡々とインクリメントし、「最新フラグ」がどのレコードが有効であることを示すものという一般解釈は成り立つと思うんだよな。で、多少この解釈ズレは生じるかもしれないが、実際、内部連携であれば、連携するシステムの相互で調整さえすれば業務としては問題ないはずだしね。(記事元は恐らく自治体間連携を前提に記事を書いているように見えるが、今のところすぐには実施しないっぽい。)
 で、この解釈がそれぞれ行われた現状で、令和7年度中の標準化期日という大目標を考えると、とりあえず今回のアナウンスは現実解としては有ではないかというのが私の考えだったりします。ただ、その部分を「競争領域」にしちゃうのはちょっと困りますが→河野様。

 そもそも、これだけの大事業であれば、全ての課題案件において100戦100勝とは行かないわけで、ところどころ失敗部分は発生するわけです。で、意味のある避難をするのであれば「発生した問題の多さ」「その問題によって発生する被害の程度」「被害に対するリカバリ対応」といったところを見ていかないと。
 確かに実際の現場ではヒーヒー言わされている身からしても、掲げた理想もいくつかはちょっと無理だろ、と思わないでも無いところであり。それでも方向性として間違っているわけではなく、後は個々の問題の対応程度に委ねられているというのが現状のシステム標準化に対する正当な見方かな?と思っています。

【問題は標準化そのものではない】
 現状の標準化で問題となっているのは、どちらかというと標準化そのものではなく標準化後に予定されているDX政策群を被せ気味に対応しろと言ってきているところではないかなと思っています。行政メッシュなる構想は以前からあって、これによりオンライン申請等国民の便益向上となる政策が進められる予定なのですが、分かっていたのかいないのか当然これらの政策を行うためには標準準拠システムのインタフェースの修正が必要になってくるのですが、標準化開始前に軒並み改版を行ってしまい開発ベンダ側が着いてこれないという状況が生まれてしまっています。ガンダムに例えるならザク作っている途中でジオングの完成させている感じで、そりゃ技術者も足は飾りだから作りませんとか言っちゃう。
 つまり、河野大臣及びデジタル庁の皆様に言いたいことがあるとすれば、色々と政治状況に左右されているところも多いとは思うが、とりあえず現状の標準化を一旦終わらせてから次を始めましょうというところでしょう。ただもしかしたらDX政策の推進というのはこういうスピード感でやっていくものなのかもしれんなぁ、と思っていたりもします。