テラとジンジャとチェーンソー

テラとジンジャとチェーンソー

ベンの中身、教えます。

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どうも。

おひさしぶりです。

休日を利用して本棚を整理しました。

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いらないものを捨てたはずなのになぜだろう、ものが減らない。

あ。借りたいマンガがあれば、貸します。



しかも本棚しか掃除できなかった。
まだまだやのう。

だいぶ久しぶりな気がする・・・

先日12年我が家で働き続けたコタツのコードが断線しました。
コードだけ買い替えようかとも思いましたが、12年前のものがあるか探してる暇ないし、このままだと家の中で凍え死にそうだったので、思い切って買いました。

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ダイソンです。
ダイソンです。
hot+coolです!

僕がこういう流行りの最新機器を買うとよく仲間に似合わないと言われますが、最新機器のほうが長持ちする気がするんですよ。

我が家はロフトのせいか面積の割には天井が高くて暖まりにくいけど、頑張って暖めてくれ!頼むぜ、新兵器!



どうも。
いくつになっても、苦手なものはあるようで。たまには自分のコンプレックスを話してみよう。

友人には知られているが、僕は人見知りである。どのくらいかと言うと、挨拶をする、人と楽しい話をする、人を褒める、人を叱る、人に謝る、人に感謝の意を伝える、人の目を見て話す、これらの類がその気になれば(?)できなくなってしまう人間である。こうなってくると自分は社会不適合者なんじゃないか、よく生活できてるな、と思う。
お芝居の公演後に、役者が客席やロビーに出て観客に挨拶するのを客出しという。知り合いのお芝居を観劇したあと、または自分がお芝居に出演したあとなどは、必ずこの時間が苦手である。大概観劇の時はパッと帰ってしまうのだが、アンケートや帰り支度に手間取ったりして知り合いに会ってしまうとどんなに見知った仲でも苦手意識が発動してしまう。どんな顔をしたらいいか分からないのだ。なので、知り合いの役者さんには、「気に入らなかったのかな?」と誤解されがちだ。しかし弁明させてもらうがこれは、お芝居の内容の良し悪しには全く関係ない。僕個人の問題である。
なるべく観劇後にもお話のイメージを残したい、なんて理論武装(いや六割ぐらいは本気だが)をしていたりする時もあるが、なんて事はない、中身はただの小心者なのだ。
それでも最近は、自分の舞台の時はなるだけ人当たりがいいような顔ができるようになった。

しかし、実際にどんな顔をしてどんな話をしたらいいか全く分かっていない。そして話が続かない。他の人たちを見るとよくそんなに話す内容があるなと感心してしまう。もともと口数も少ないのだから、「ありがとうございました」「お疲れ様でした」が精一杯である。

治したいとも、治るとも思っていないこの非社会性なのだから、結局苦しむしかないのだ。

えー、劇団ブログの方では、稽古場日記なるものがありまして。
稽古場の様子なんかを書いたりしていますが、たまには「稽古場取り日記」を個人的に書いて行こうと思います。

劇団固有の稽古場を持たない僕らは主に公共の施設をお借りして稽古をしております。もう使い続けて10年以上になりますかね。大学の頃から借りているので。今はどうか知りませんが、僕らの時代はサークルは大学の学生課と折り合いが悪く(まあ、たいして大学の利益にもならず、やたら筋トレや大声や木刀振り回していたら、そら煙たがれる。それでも僕らの代は柔和になった方。)、さらにそれから派生した弱小劇団になど、全く関係性がないので空き教室かしてくれるわけもなく、公共の施設をお借りして稽古をし続けております。

この施設ですが、毎月初めに抽選会なるものがあります。くじ引きで、引いた順番から希望を聞いていくというものですが、これがなかなか激戦。
他の団体さんは演劇だけではもちろんなく社交ダンスらしき団体さんや、フラメンコらしき団体さん、お年寄りのなんだか色々な趣味の方々など様々。

実は僕はこの抽選会、密かにライバル視している人がいます。1人は劇団の方で僕の大学の先輩、もう1人は社交ダンスらしき老紳士。このお二人の引きが恐ろしい。割といい番号を取っても必ず先を取られる。

因みに朝、昼と二回あるのですが、僕は二回とも5番。今回は、朝に先輩に2番は取られて一敗したけれど、昼は勝ちました。

さて、来月はどうなるかな?
先日、ウチの劇団の次回公演に向けて脚本研究会なるものの第二回が行われました。
いや。固い名前ですが実際は割と自由なワークショップです。だってまだ脚本できてないし。(笑)

さてラストのエチュードで芥川竜之介の短編『三衛門の罪』を題材にしたエチュードをやりました。
僕も読んだことのない短編なのでざっくり説明すると、若い武士、三衛門が闇討ちあったものの、それを返り討ちにしたのですが、それは彼の友人、数馬でした。その顛末を三衛門の上役である治長が問いただす、というお話。ちなみに何故友人であるはずの数馬が三衛門を襲ったのかについては、数馬の剣術の試合の折に審判をしていた三衛門が“公平を守るため”友人の数馬に敢えて厳しい審判をした、それによって数馬は負け、出世のチャンスを逃した事を恨んでではないか、と言うのが三衛門の言い分でした。

ただ、僕は最後の三衛門のセリフ、治長が何故数馬と分かっていながら斬ったのかという問いに「武士だから斬りかかれたら斬らねばならない。」というのがどうしても言葉通りに呑み込めなくて。
エチュードも良く分からないままやってしまいました。
家に帰って早速、この短編を読んでみました。
僕の解釈が正しいとは限りませんが、芥川竜之介の作品(特に短編)はセリフ、特に心情などを述べる独白を素直に表さないのが特長だと思っております。なかなか本音を言わない上に、ようやく言ったのその本音のセリフは『本当なんじゃないんじゃないの?』なんて思わせるような作りになっているのではないかと思います。
そうした穿った考えで勝手に振り返ってみました。
果たしてほんとうに三衛門は「武士だから」襲った友人を斬ったのか。

それと、もうひとつ。エチュードをやっていて感じた、暗い底を這うようなドロッとした感情はなんなのか。

ここからは、あくまで個人の見解です。ちゃんとした解釈は研究者の方のをお聞きください。

まず、数馬という人物はなぜ三衛門を斬ろうとしたのでしょう?
試合の判定でえこ贔屓をされたから。それは元凶なのは間違いないでしょう。(それ以外の判断材料は短編からは読み取れませんでした。三衛門主観の話ですし。)しかし彼はここであるジレンマに陥ったのではないでしょうか。片方は友人に裏切られたことによる絶望から来る怒り、恨み。もう一つは、そんな感情を抱いてしまった自分への絶望と屈辱。その間に揺れ動いて結果、三衛門を闇討ちするという手段に思い至ってしまったのではないかと。ひょっとしたら彼には三衛門に対する殺意はなかったのかもしれません。ちょっと脅かしてやろうかと思っただけなのかも。
さて三衛門ですが、かれも友人を贔屓しないように判定した結果、彼に厳しい判定を逆に下してしまい友人は負けてしまった事に思い悩んでいました。自分は彼の友人なのに悪いことをしていしまった、いやいやだからと言って数馬を勝たせても周りから何を言われるか。
そんな折、彼は数馬に闇討ちにあいます。そう、彼もまた友人に裏切られたのです。彼は最初やはり絶望したでしょう。しかしその絶望が、闇討ちという命のやりとりの中で、彼の中の友人と自分の命を秤にかけたとき、傾く重りになったのではないでしょうか。もしかしたら数馬と三衛門の友情の重さは違っていたのかもしれません。そして三衛門は数馬を斬り殺しました。その時、彼の頭は友人を殺してしまったという特殊な状況から日常に帰るため、必死で言い訳を考えたのではないでしょうか。あるいは義憤。あるいは、『武士』の心得。
彼は無意識のうちに『武士であること』を殺人動機の後付けにしてしまったのです。ホントはそこにはもっと暗い感情があったのに。心の底から引き上げるために『武士』という特権階級における社会心理を利用したのではないでしょうか。
そしてそれは治長に質問されたとき、決定的なものになりました。
だから、『三衛門の罪』とはその発言をしたことで自分を悲劇のヒーローに仕立て上げたことではないかと思うのです。
初め、数馬が受けた裏切りとそこで感じた絶望は三衛門へと乗り移りました。そして、彼は一生『自分は本当に武士だから友人を斬ったのか?』と問い続けるでしょう。

余談ですが、短編の冒頭の解説によると治長は三衛門の事を大層信頼しているそうです。それがまた三衛門の絶望に追い打ちをかけるのではないでしょうか。


・・・とまあ、勝手に考えを巡らせてみました。

「ぜんぜんちげーよ、バカ。」とあの世で芥川先生が蜘蛛の糸につかまりながら言ってるかも知んない。