きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。(デカルト)
 
友達から、以前、「teafoolは保守主義だね」という評価を受けたことがあります。
そのときは、保守主義のなんたるかをよく知らなかったので曖昧な答えを返したかと思いますが、少し調べてみて、たぶん私はその友達の言うとおり保守的なんだろうなと思いました。
ただ、(その評価を受けたときの自分の考えがそうだったのですが)保守=体制維持みたいな印象がありました
しかし、調べてみると、保守であっても、変えることはするらしい。
私の中での、今現在の「保守」という言葉に対する捉え方は、「その変更の際に過去を参考にして、漸進的に変えていくものだ」というものになりました。
 
そこで頭に浮かんだのが上の一節。
「方法序説」の1部にある一節です。
どちらかというと、自分は歩みが遅い愚図な方なので、上の言葉は、読んだときにはなかなかと感じ入るものがありました。
同時に、「歩みが遅いぶん、まっすぐな道を進んでいくようにしていきたい」と思ったりしました。
 
そして、最近、大学での勉強……特に、今取り組んでいる卒論(ひいては論文一般)について考えを巡らせてみました。
 
卒論か何かに取り組んだ経験のある方(あるいは論文の書き方についての話を聞いたことがある方)はご存知かと思いますが、論文というものは、昔の論文・研究について、ものすごいリスペクトをしなければならないのですよね。
これまでの論文や研究と、自分の新しく主張したいことが、どうかかわっているのか。
それが、論文に必要なものになります。
 
そして、調べていくと、自分が考え付いたことなんていうのは、だいたいの場合は誰かがすでに言及しているということがわかります。
すでに誰かが考えていて、でも、日の目をみることがなく、「そういった見方・考え方がある」ということが一般的にならなかった数々の言論。
今現在正しいと思われていることでも遥か未来では正しくないと思われて言うこともあるでしょうし、逆もまたあるでしょう。
そうした、先行論文(先行研究)をしらみつぶしに調べるのは、面倒臭くはありますが、同時にそれが面白くもあるのですよね。
「自分と同じことを、昔の人も考えたんだな」とか「じゃあこんな場合はどうだろうか」とか。
そして、願わくは、自分の言論が、たとえ大きな潮流ではなかったとしても、後世に連なる何かになってくれれば……。
結局私は研究の方に進むことにはならなかったですが、たぶん、学問や研究の面白さというのは、そういった気持ちを持ち続けられることなんだろうなと、漠然と思いました。
 
ちょっと話がそれてしまいましたが、話を戻して……。
論文を作るということは、こう考えると、たぶん保守的なのですよね。
過去を参考に、その流れの中で、自分の意見をちょっと加える。
もちろん、画期的な発見がありえないかというと、そうではありません。
学問においては、今までにいくつもの画期的な発見が(私が知っている・知らないを問わず)たくさんあったはずです。
ただ、多くの場合は、漸進的に真理に近づいていった(あるいは今現在近づいていっている)はずです。
それが学問であり、研究何だと思います。
 
思ってみれば、勉強だってそうでした。
たとえば、関数を例にとると……。
まずは計算をわかっていないといけない。
その後、方程式(あるいは小学生なら□にはいる数字は~といった問題)がわかっていないといけない。
そのあとにやっと比例・反比例を学ぶ。
そのあと、一次関数になり、y=ax^2を学ぶ。
それから高校に入って二次関数を学び、高次の関数を学ぶ。
そのときには、場合によっては因数分解の知識がいる。
それから、対数関数や指数関数その他もろもろの関数、微分積分をならって、ようやく実際の学問で使えるようになっていく。
一つの例をとってみましたが、実際の学問で使えるようになるには、すごく漸進的に積み重ねていかなければならないのですよね。
 
プログラムを作るにしても、いきなり大きなプログラムを作ることはできません。
簡単なことから始めて、そこから少しずつ変えていって大きなプログラムになるわけですよね。
そうしないと、どの部分でバグがあるのかがわからなくなってしまいます。
少しずつ……それこそ、1個の命令だけを加えて、そこで予想と違う動きをすれば、そこがバグだとわかるので、修正も手っ取り早い。
大きく変えて、どこにバグがあるのかまったくわからないと、対処のしようもありません。
 
もちろん、すべて漸進的が正しいと言えるわけではありません。
拙い知識ではありますが、生物の進化には(「適応力が高い」という注釈がつきますが)突然変異がないと駄目だそうです。
そうした革新的な変化も必要なときがあるかとは思います。
しかし、それも、走った方向が正しかったが故の進化ともいえます。
事実、突然変異がおこったとしても、適応力が下がる変異だった場合には淘汰されます。
ある意味、博打と同じかもしれません。
 
普段は戻りやすいように漸進的に進んで、本当に漸進的に進めないときだけ博打にかける。
私は、そうした進み方のほうが安全だと思うのです。
ゆっくりだけれども、つねにまっすぐに。
私はそうして進んでいきたいと思っています。
たとえ私が道をそれてしまったとして、誰かが呼び戻してくれて、すぐに戻れるようなスピードで。
仮に誰にも呼び戻されることがなく(あるいは呼び戻されても私が聞く耳をもたず)にそのまま道をそれてしまったままでも、後世の人間が「ここで道をそれた」と気付けて、同じ道にゆかぬよう。
そうして、何世代にもわたってそうしたことが積み重ねられて、遥か先の未来が、少しでも多くの人にとって良いものとなっていればいいなと思います。