前にラムネさんのブログでとある記事を読んだときに、「自分は大学でどんな視点を身につけたっけなぁ……」と、しばらく考えておりました。
というのも、うちの学部は、ほんと「広く浅く」を地で行く学部ですので、知識はいろいろと身につくのですが、学問的な考え方となると、どうもぼんやりとしてしまうのです。
学問的な視点と言える専門的な知識までは習得できてなさそうと言ったらいいのでしょうか。
ただ、学問的な視点というわけではないのですが、大学に通って、「批判的に考える力」っていうのは身についたと思います。
「批判的」ですが、別に、「相手を罵倒する力」ではありません。
「本当に正しいかどうかに注意を向けて、気になったらデータや資料を集めたりして調べる力」と言えばよいでしょうか。
たとえば、例ではありますが、「学力低下問題」について考えてみたとしましょう。
よく、「ゆとり教育により、学校での学習内容が減ったから学力が低下した」という話はきくと思います。
では、本当に「学校での学習内容の減少が学力の低下につながった」のか?
そこで、「金銭的余裕がなくなり、学習塾など学校外で勉強を教えてもらう時間が減ったので、結果的に学力が下がったということはないだろうか?」と考えたとしましょう。(実際、東京大学に通う人の親の平均年収は、他のどの大学に通う人の親の平均年収よりも高いとかをどこかで見た気がします)
そのようなことが原因ではないのか?と気になったら、「親が子ども一人当たりの学習塾などにかける金額の変遷」のデータを探して調べてみる。
それで、その金額が減ってきているようなら、上で考えたことが正しいのではないかと考えることもできそうだといった形ですね。
さらに、「でも、学習塾の授業料が下がってきているのなら、時間数は同じでもかける金額は減るのでは……」と考えてみる。
そしたら、「学習塾の平均的な授業料の推移」のデータを探してきてみる……。
こうした形で、「他の人が言っていることを全部鵜呑みにせず、気になったら他に正しそうな原因がないかどうか考えてみる」といった力は、昔と比べれば身についたとは思っています。
別に、「他の人の言うことを信じない」とか「世間に流されないぜ!」いうわけではないです。
世間で言っていることも、ある程度はなんらかの予想や数字に基づいたものではあるでしょうし。
ただ、あくまで、気になったことがあったら、本当かどうかをちょっと調べてみるというくらいです。
あるいは、自分に深く関わりそうなことであったり、意思決定が必要そうなことであったらちょっと調べてみる。
そうした「考える力」です。
とはいえ、何もかもを調べるというのは、時間的にもあふれる情報的にも無理です。
だから、「何を調べることが自分にとって必要か」も考える。
さらに難儀なことに、ある問題に対して、まったく真逆の意見Aと意見Bがあることはザラ……というより、そういう問題がほとんどです。
そして、概して、どっちが正しいかということが簡単に判断できないです。
どちらも、それぞれの信念やそれぞれが調べたデータに基づいた意見なわけですよね。
じゃあ、自分が決断を迫られたときにどちらを選ぶべきなのか……。
実際に決断を迫られたときに調べるのでも構わないから、決断するときは、納得のできる選択をする。
そのために、「考える」ということは非常に大事になってくると思っています。
たしかに、決断の際に、あまり深く考えず、ただ周りと同じことを選ぶということは楽だと思うのですよね。
考える労力も少なくてすみますし、何かしらの不具合があっても「周りもみんな同じ選択だったし仕方ないか」って思える。
ただ、多くの人が選んだとはいえ、何か不具合が起こるのなら、大なり小なり選択した責任というのは出てくるわけです。
赤信号をみんなで渡ってても、事故になっちゃったらダメなわけですよね。
私は、大事なことを決断をするときには、仮にその決断の責任が自分の身に降りかかる場合でも納得ができるくらいの気持ちで選択をすることが理想だと思っています。
私の単なる押し付け意見ですが、多くの人がそれぐらいの気持ちを持って決断をしていくべきだとも思っています。
ただ、最近、そうした気概のない人が多いのではないかと、そう思っています。
私自身が、メディアやネットで報道される内容やあふれる情報を過大評価しての思いである可能性は多分にあるのですがね。
大衆迎合と言えばいいのか、右に倣えと言えばいいのか、考えることなく、なんとなくの雰囲気で選択をする。
こうした人が多いのではないかと感じます。
熟考の末の選択であれば、感情的でも論理的でもいいのですが、本当に「なんとなく周りの雰囲気で」というくらいの気持ちで大事なことを決めてしまう。
それは、非常に危ないことだと思います。
じゃあ、私は自分の決断に責任を持っているのか?周りの雰囲気で選択をすることはないのか?問題に対してはいつも熟考しているのか?
残念ながらそんなことはないです(汗and苦笑)
ただ、でも、理想として、「大きな選択をするときは熟考し、責任を被ることになっても納得できる人間になりたい」とは思っています。
そして、他の人の選択によって自らになんらかの負担がかかるとしても、熟考の上であるなら(相対的にではありますが)まだ納得ができると思っています。
当初の話とはずいぶんずれてしまいましたね(^^;)
偉そうに言えた口ではないのに、いろいろと書いてしまった……。
まあ、偉そうに言う資格のない、とあるおっさんの長々とした戯言でした。(笑)