人は、なぜ学ぶのか。
学んでどうするのか。
私は最近、ヒトが学ぶのは、ヒトを知り、この世界を知るためだと思ってます。(あえてヒトとしたのは、個人という意味でなく、種族としてのヒトを表したかったからです)
私たちが勉強をすることによって登っていく山の頂上には、この世の真理とでもいうものがあるのではないかと。
そして、まあ確実に私であったり私と同じ世代の人々が頂上にたどり着くこともないでしょう。
そもそも、今の私たちはみな、生まれたときは山の麓から出発するわけです。
過去の人が登ってきたところからまた登るのではなく、もう一度、山の入り口から歩きだす……。
学問の進歩というものはありますが、それは、山を登るときの近道を遺すようなものでしょう。
過去の偉人が時間をかけて編み出した物を、知識として得る。
そして、過去の者より速い足並みで、山の頂上を目指し歩く。
その点において、私たちが行っていることは、未来に生きる者たちのために、近道を探しているだけにすぎないのかもしれません。
では、私たちが行っていることは、なんの意味もない行為なのか?
そんなことはありません。
後の誰かが山の頂上にたどり着くためには、だれかが道を探さなければなりません。
頂上というのは、誰かが道を作ったからこそ到達しうるものです。
その頂上にむかう道の上には、確かに私たちのなしえたものが残っているのです。
ときには、間違った道を作ってしまうかもしれません。
しかし、間違った道も、作ってみないことには間違いかどうかはわかりません。
その意味で、現世に名を残すことのないたくさんの間違い、今もなを生みだされる後世に名を残すことのないたくさんの間違い、すべてが頂上にいたるために必要なのです。
ただ、私は、ヒトが頂上に到達するとき、はたしてそれはヒトと言えるのかという疑問も持っています。
さきほども書いたとおり、けして山の途中から歩きだすわけではないのですよね。
ヒトが歩きだすのは、常に山の麓。
ヒトが生きている間(あるいは頭がまともに働く間)に登れる場所など、たかがしれています。
頂上にたどり着くには、あまりにも心許ない。
だから、ヒトが頂上にたどり着くとき、ヒトはなにかしらの策を講じて頂上にたどり着くことでしょう。
たとえば、山の途中から歩きだせる術を見出だしたり。
あるいは、山を車で登るように、登る速度を速める術を見出だしたり。
あるいは、登れる時間を長くしたり。
しかし、そうなったヒトを、私たちは今と同じようにヒトと呼ぶのか?
過去に私たちであったものを、猿人・原人・旧人などと呼ぶように、私たちは将来、”過去の”ヒトとして認識されるかもしれません。
そうなってしまうと、ちょっと悲しいかもしれませんね。
なーんてね♪