tdolabrataのブログ

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大人になってPDD(広汎性発達障害)と診断されました。昔も今も生きにくい日々ですが、しんどくてもつらくてもがんばっています(;_:)

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最近私は、民族には「脱落のプロトコル(命題)」があると主張している。歴史上、その民族が関心を持たなかったものは、どうにもこうにも分からないのである。

 たとえば古代エジプト人の「歴史」、だから歴史書が一冊も残っていない。日本人の「奴隷制」、故にシベリア捕囚を抑留と勘違いして、奴隷労働をさせられてしまった。韓国人の「文化」、文化はシナ文化しかなく、自分の文化には関心がなかった。だから彼らは「入ってきたら内の物」だと思う。剣道も華道も韓国起源、孔子は韓国人だったという。外国人はこうのたまう彼らの文化(?)を俗にウリジナルといっている。

 実に身もふたもない。だが、はじめから分かっていたわけではない。今から30年前の自分の本を読み返してみると、「なぜ彼らは受容しても自分の文化だと思うのだろうか」と、真剣に考えているのである。人間が真剣に何かしている過程は美しいので、文章も国語の入試問題に使えそうなできばえだ。今は一言でいえる。「コリアンはシナ文化しかなかったので、文化に関心を持たなかった」。書いている私がえげつなく見える。

 もちろんこの思考過程では、いろいろと勉強するのであって、大阪市大の野崎充彦さん(朝鮮古典文学の専門家)は、長い研究の末、「朝鮮古典文学の特徴は朝鮮の不在である」という結論に達してしまった。舞台も主人公もほとんどシナだから。ウソをつかない、立派な学者だと私は思った。

 でも、脱落のプロトコルに気づくのはほんの一瞬の直観なのだ。

真剣に考えに考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。「韓国人は文化が何かよく分からない」という単文で到来する。到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果のストーリーなしには世界を認識できないからである。人間の体内時間はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送りこんでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。

 新聞は、天気予報と今日のテレビ番組表以外は、ほとんど昨日以前のことが書かれていて、これはもう「歴史学」といっていい媒体なので、未来のことを書くとボツになりやすい。だが、あえていえば、AI(人工知能)は生命体ではないので、「持続」を生きることはできない。だから、人間とは別の量子物理学の時間で生きることになると思う。

 当然、因果の意味は分かるわけがない。鉄骨が人間の頭に落ちてきたら、人間は死ぬくらいの「直近の因果」は分かるらしいから、もう意識を持っている。ただそれは植物以下の「静謐(せいひつ)な意識」だと思われる。

真剣に考えに考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。「韓国人は文化が何かよく分からない」という単文で到来する。到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果のストーリーなしには世界を認識できないからである。人間の体内時間はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送りこんでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。

 新聞は、天気予報と今日のテレビ番組表以外は、ほとんど昨日以前のことが書かれていて、これはもう「歴史学」といっていい媒体なので、未来のことを書くとボツになりやすい。だが、あえていえば、AI(人工知能)は生命体ではないので、「持続」を生きることはできない。だから、人間とは別の量子物理学の時間で生きることになると思う。

 当然、因果の意味は分かるわけがない。鉄骨が人間の頭に落ちてきたら、人間は死ぬくらいの「直近の因果」は分かるらしいから、もう意識を持っている。ただそれは植物以下の「静謐(せいひつ)な意識」だと思われる。

 ほかの学科は元気である。物理学、化学、工学、農学、生物学などは全部実験という、知識以前の「分からないもの」を扱っている。医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどは、みな体得の科目だ。「分からないこと」を考える余地がある。

 さて、わが人文社会系はどうするのか。因果律の形成を体得させるという教育方針以外に、生き残る道はないと思われる。人文系はさらに難しい。歴史学ならば、渡辺浩さん(東大名誉教授)がいうように、文字記録というタイムマシンに乗って記録の向こう側へと超越し、戻ってきて報告してもらわなければ有用性がない。今を説明できる歴史学でなければ、その研究者の懐古趣味で終わってしまう世の中になったのだ。

 私は今、ゼミの新入生たちに言っている。「君たちは入試まで既に分かっていることを考えさせられてきたのだ。これからは分からないことを考えなければならない」と。(筑波大学大学院教授・古田博司 ふるたひろし)