鳥羽伏見の戦いは、京都伏見の御香宮という神社から、伏見奉行所に、鉄砲をぶっ放すところから始まるのですが、これも、急に薩長が打ってきたのであって、ほとんどテロ行為です。
よく錦旗が薩長側に、たなびき、薩長が、天皇側で、幕府が、賊軍とされ、一気に体制が、薩長側に変わったいわれていますが、そもそもこの錦旗、勝手に、岩倉具視が、西陣に発注して作らせたもので、天皇家から出てきたものではありません。
そもそも、錦旗なんて天皇家にあるのかもはっきりしません。あったとしても、この戦い使用されたものは、勝手に薩長が作ったものです。
この時に、幕府側は、京都から、淀川沿いに大阪に、逃れていくのですが、慶喜はこの時大阪城にいました。
幕府側の兵は、薩長側より、沢山いました。
しかし、なぜか、慶喜は、大阪城を出て、今の天満橋にある八軒屋という淀川の、岸から大阪湾にでて、停泊していた、船で、東京に戻ります。
慶喜は優秀な人でしたが、やはり、文人だったのでしょう、ここでもう少し頑張って、戦いをして、薩長側を抑えていたら、歴史はおおきく変わったかもしれません。
鳥羽伏見の戦いでは、京都の伏見界隈はすべて、焼かれました。今、坂本竜馬がよく利用した寺田屋が、観光名所になっていますが、
実は、ここも、その時に焼かれているので、昔からあったものではありません。
伏見桃山にある料亭に、鳥羽伏見の戦いの時の、鉄砲の跡が、まだ、お店の玄関に残っていますが、この写真を載せておきます。
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