ものみの塔と飼い犬長老達が実際に私にした人権侵害被害者のブログ〜くぅ太のパパ

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冤罪排斥され集団無視。うつ病で生活もままならないのに更に精神的に追い込まれていつ自殺してもおかしくない天涯孤独の身。嘘八百並べ立てて必死に防戦一方なのは、ものみの塔が背教者と呼ばわってる私たちではなくものみの塔自体であることを暴露します

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今月はアイドルさんの推しの誕生月でもあり、送られて来たファンからの誕生日プレゼントをTwitterの画像に上げて、喜びと感謝の気持ちを綴っておられるのを先日読みました


そのアイドルさんはピアスやネックレスを着けるのが好きで、最近は首にも耳にも十字架を着けて自撮りをして画像を乗せてくれたりしています


エホバの証人思考ならすぐに、「コレは偶像崇拝だ」という思考回路がはたらきます。


私は冤罪排斥とはいえ、あの醜悪な組織から出られたことはマイコンを完全に解く上でもありがたいことでしたが、エホバの証人が宣教で用いる「論じる」の本に書かれていた「十字架の上でキリストが死んだというのなら、そんな処刑に用いられた道具を大切にしたいと思われますか?」とキリスト教世界の人に言い返せる、というこの意表を突く一見痛いところ突くな〜と相手に思わせる効果のある一節が十字架を見るたびに思い出され、あのたとえなんとか崩しどころはないものか?と考えることがありました。まぁ、実際にこんなこと初対面の人に言おうものなら、感情論に相手は走ってしまい効果はないとは思っていましたが、エホバの証人はその相手の反応を見て自分が勝った!と自己満足には浸れるので、なんとか伝道者に吠え面かかせることはできないものかと思って、昨日家庭教師の授業で新しく改定された中3生の英語の教科書のページをパラパラとめくっていたら、ある写真に目が止まりました。原爆ドームの写真です。その時、久しぶりに頭に筋書きがサーッと浮かんで来ました


原爆ドームは見るも無惨な外見を晒したまま保存されており、世界遺産にも指定されています。見る人の中には、自分もあの爆弾の被害を受けた、という人もいれば、建物があのように中には何も無くなってかろうじて外見を留めるまでになるほどの威力で何十万人もの命を一瞬にして奪い去ったということを考えただけで、涙を流す平和を愛する人も少なくないでしょう。しかし、それでもあの建物を保存して世界遺産にまでなっているのはどうしてでしょうか?


それは、原子爆弾そのものをモニュメントとして記念に保存するのはそれこそ殺人兵器を崇めているようなものですからおかしいとしても、人類が二度と核兵器を使わないために、原爆によって失われた貴重な命を含めすべての破壊されたものを思い起こすために、原爆ドームはあえて壊さずに保存されているのではないでしょうか?


であるならば、クリスチャンにとって十字架とはエホバの証人の言い方を素直に受け取るとその通りかも、と思えるかもしれませんが、キリストを殺した道具と言い切れるでしょうか?殺したのは、弟子の裏切り行為であり、パリサイ派や書士たちの一方的にキリストを処刑に持っていくための違法な裁判であり、人間です。


一方、キリストはその十字架を背負い歩かされて、最後にその刑柱上で自ら犠牲の死を遂げてくださったのです。


であるならそれによって人類の救いがもたらされることになったのですから、その十字架は果たしてエホバの証人が主張したがるようにクリスチャンにとって忌まわしいもの、身に着けたいとは思わないはずのものだと言えるでしょうか?原爆ドームは多くの人が核兵器の犠牲になったことを如実に物語っているものですが、それを忌まわしいものと思ったり、モニュメントとして記念に保存するのは間違いだと言う人はいますか?あの、原爆ドームをバックに元気に飛び跳ねた姿をインスタグラムに上げたことで物議を醸している恐らく模範的な開拓者がいますが、批判されるのはその平和に対する、犠牲者に対する認識が余りにも無さすぎると多くの人々がつまずきを感じたからですね?


ならば、その上で苦悶の死を遂げて人類に救いをもたらしてくださったキリストをいつも思い起こすために、クリスチャンが十字架を身に着けることのどこが忌まわしいと言えるのですか?


筋書きじゃない(笑)


頭の中の筋書きに基づいて、もしエホバの証人に言い返すなら、論じるにはこちらも論じるで推論返ししてやればいいのです。エホバの証人は録音テープのように教えられたことはまことしやかに言いますが、理論をひっくり返されたらその場で聖書からキチンと対処できる奉仕者はそんなにいないと思います。彼らは洗脳されてるだけなのですから、考えることを止めています。考えたらもっと多くの人がものみの塔や統治体はおかしいぞ?と気付いているはずです。


聖書は偶像崇拝を禁じてると言い返して来るくらいはするでしょうが、ある方のブログにはではなぜモーセは銅の蛇を見ることを民に命じたのか?という鋭い指摘がありますし、私は既に新約聖書の聖典性には信ぴょう性がないと確信していますし、パウロ書きすぎやろ?というほど彼が幅をきかせていますから、偶像崇拝を厳格に禁じる自分の古いユダヤ教の影響をキリスト教に持ち込んでるという解釈は十分に可能です。なにしろ、モーセ大先輩がサタンも用いた蛇崇拝をさせたのですから、その矛盾に聖書が答えていないのは明らかに神からの手紙としては情報不足としか言えません。


私のところには冤罪排斥後、隣の会衆の区域に移り住んだせいか、連絡不足で2回ほどエホバの証人がミス訪問しましたが、来たらダメなところですよ?とお伝えしたらもう来なくなりました(ココの長老団対応おせぇわ‪w)ので、機会があれば使ってみたいものだと思って書き留めることにしました。


さ、助言もらいに行こ(笑)