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tatzney's diary

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現在、学校教育の現場や入試において「学力」と呼ばれてる能力は、実際には、人の知的能力の内「知識量」と「蓄積された知識(情報)の検索処理能力」の二つの要素に限定されています。この二つの要素は、量と時間という形で非常に数値化しやすく、試験の点数で人の能力を序列化する上では最適な指標であると言うことができるでしょう。しかし、これらは、人の知的能力全体からすると、非常に限定的な要素に過ぎず、この指標だけで「頭か良い(知的能力が高い)」か「頭が悪い(知的能力が低い)」を判断することはできません。
勿論、これらの要素で優れている人は、その他の知的能力についても優れている可能性は否定できないので、知的能力を評価する上である程度参考になる可能性はあります。

発明王と呼ばれるトーマス・エジソンは、子どもの頃「1+1=2」という基本的なことが理解できなかったという逸話があります。学校で「1+1=2」を理解できないというと「頭が悪い」と評価される可能性が高いでしょう。しかしながら、実際の生活の中で、次のような場合には、「1+1=2」を実感として理解することが難かしいかも知れません。

(例1)
机の上に水を一滴垂らし、その上にもう一滴水を垂らすと、机の上には二つの水滴ではなく依然として水滴は一つだけです。
つまり、数としては、1+1=1となります。

(例2)
一人の人に魚を一匹与えたとき、人一人と魚一匹をまとめて表そうとしても共通の単位がないので2(?)と表記することはできません。
つまり、1+1=1+1のままでしかありません。

言い換えれば、「1+1=2」という当たり前のように考えられている式は、数学の概念としては説明できるとしても、実際の生活の中では、一緒になっても依然として別々のものとして勘定することができ、また、それらを数える単位が同じであるという非常に限られた条件が成立する場合にのみ、実感として理解することができるのです。

エジソンには、当たり前のこととして教えられた「1+1=2」という式について、「本当に正しいのか」という疑問を抱く感性があり、その感性こそが後々の数多くの発明につながったのだろうと思います。

人口減少が加速し、経済が緩やかに縮小する傾向にある今日において、コンピュータが最も得意とする「情報量(知識量)」と「蓄積された情報(知識)の検索処理能力」という能力よりも、無から何かを生み出す「創造力」や、今当たり前だと思われている物事に疑問を抱く感性こそが、より必要とされる能力となって行くものと思われます。

大学入試制度の改革と称して、マークシート方式から記述式に試験方法を変えたところで、結局、記述した回答に、正解とされる文言がどれだけ含まれているかを、民間企業が雇用するアルバイトのスタッフに勘定させて採点して序列化するのであれば、実際には何の改革にもなりません。

大学の在り方を見直すことも、喫緊の課題であると思います。

昨今、大学は研究機関であるよりも、卒業後に社会に出てから即戦力となる知識、技能、資格などを取得するための教育機関としての役割の方が重要視されています。

そこで、大学を研究目的の大学と実務教育目的の大学に明確に分けてしまうのも良いのではないでしょうか?

研究活動は、必ずしも収益性がある訳ではないので、大学や学部の数をある程度限定して、国公立か私立かに関係なく、国の予算で助成する一方、実務教育の大学については、最終的に即戦力となる人材の供給を受ける企業側が、受益者負担の観点から税金もしくは基金への拠出などの形で費用を負担して運営します。

入学試験についても、研究活動大学は、個々の大学が独自の考査方法で学生を選抜する一方、知識量と処理能力が重視される実務教育大学では従来通り、効率的なマークシート方式で学生を選抜すれば良いと思います。

さらに実務教育大学については、一旦社会に出た後で、必要な技能が取得できるよう、社会人が入学しやすい仕組みを取り入れることも必要でしょう。
また、実務教育大学の対象となる分野は、今後、人工知能による代替が進む可能性が高いので、人としての付加価値をどのように創出するかも大きな課題の一つです。


子供の頃、絵が上手になりたかった…

芸術とは、現実にあるものを唯写実性に表現するのでは足りない

非現実なものをどれだけ本当に存在するかの様に見せることが、芸術の醍醐味なのだと思う

ダリやミロの絵は勿論、ダ・ビンチのモナリザにしても、モデルとなった人は、実際にはあんな微笑みを湛えてはいなかったのだと思う

聖書を題材とした宗教画も、非現実を如何に現実的に見せ、人々にその世界観を一瞬で伝えるかに賭けているのだと思う

絵画や彫刻は、その点で自由度が高いが、写真や映像は、現実のものが被写体なので、非現実を表現することは難しい

現実をそのまま撮影しても、単に記録や報道にしかなり得ない

モデルや役者を立てて、実際にあるかのような非現実を表現することになる

若しくは、現実をある角度から切り取ることで、表面には見えていないものを、示唆したり、暗示したりすることが、その使命となっているのではないだろうか

大阪都構想に関する住民投票が行われ、僅差ながら反対が多数となり、橋下市長が年末に迎える任期の満了を以て引退するという報道がありました。

5年以上にわたり、新しい政党まで創設して臨んだ橋下市長の大阪都構想に比べれば、あまりにも小さな規模の話ではありますが、3年かけて取り組んできた武蔵台小学校PTAの改革が、学校と一部の役員の強硬な反対に遭い、他の役員の理解も得ることができず、最終的にPTA会長を退任する(解任される)ことになった自分と、今回の橋下市長の状況とが重なるように感じられます。

改革の規模も、人としての器も自分の場合とは比較にならないほどの大きな差はありますが、橋下市長の心情のほんの一端が少しだけ分かるような気がします。