625 :もぎりの名無しさん:2011/02/01(火) 23:37:32 ID:1p0tIfYIO
認識の変化を起こして
>「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う」
>そうすればエゴではなく「世界」が、あなたという「現実世界での取りあえずの形」を通して動き出すでしょう。
ってゆーのが良く分からぬのですが、どしてとりあえずの形で動くの?
自我はいないのに?というか自我と世界は丸ごと私なのに?
626 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 00:26:38 ID:391VQqOM0
>「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う」
これは>>366(こちら)
をもう一回読んで頂きたいのですが、別にやるやらないは大した問題ではないです。
認識が変われば他人という概念は薄くなるので、自然と親切になるという事だけです。
「やらなくてはならない」メソッドとかでは無いのでその辺は誤解しないで下さい。
>そうすればエゴではなく「世界」があなたという「現実世界での取りあえずの形」を通して動き出すでしょう。
ちょっと分かり辛いかもしれないですが、例えば「あなた」が前に歩けば前方の空間がどんどん「あなた」に吸い込まれていきますよね。「あなた」と世界が丸ごと同じだからです。
そしてそれらの概念を創っているのが本当の自分です。全てを創っているわけです。
627 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 01:20:26 ID:1p0tIfYIO
>例えば「あなた」が前に歩けば前方の空間がどんどん「あなた」に吸い込まれていきますよね。「あなた」と世界がまるごと同じだからです
え!wこれは一体?ww
叶ってるという言い方はおかしいかもだけど、世界で叶ってるのに自我(現実世界での自分)の自分でも叶って見えるってのがなんか二重に叶ってるように思ってしまう
628 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 01:50:13 ID:391VQqOM0
別に「え!wこれは一体?ww」と感じ、意味が分からなくても大丈夫です、
意味が分からない方が却って変化のチャンスでもあるかも知れません。
ですから私の書いた文を説明書やメソッドを学ぶような感じで読まない方が良いです。
こんなもん流し読みで十分です。
今>>626で私が書いた文を見て「え!wこれは一体?ww」と思ったのは、今までエゴが作り上げた経験則その他で判断し「意味分からん」と思ったわけです。
まさに「意味分からん文章」を瞬時に創ったではありませんか。
これで全ては自分の内面の投影であり、全てを瞬時に創る事が出来ると証明されました。
その創ったものが、エゴがによって脚色されているかそうでないかだけです。
>>526で書いた「それ」は常にあるんですが、エゴによって気が付けないだけなのです。
640 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 23:35:32 ID:391VQqOM0
「あなたの両親が生まれる前に、あなたは何処にも居なかった意識として居た」と言われ、「何が何だかさっぱり分からん」と浮かぶなら、それが正しい答えです。
あるいは「いや、拙者は伊賀の里にいたのでござる」と浮かぶなら、それも正しいです。
この質問の狙いは、その答えが浮かぶ前の「意識」を感じて頂きたいのです。
ですから以前書いた映写機云々やその他の内容も、この「意識」に対するフィーリングを感じて、単純な認識の変化を感じて頂きたいのです。
昨日も似たような事を書きましたが、私が書いた内容を「メソッド」の類と思ってそれらを体現しようとしてはいけません。
「メソッド」を追い求めると高い確率で「メソッド」によってエゴまみれになります。
「私=メソッド知ってる(出来る)人、あなた=知らない(出来ない)人」という
明確な「分離」が始まるからです。
ただ「認識の変化云々」とか文章で書いてしまうと、どうしても「メソッド」的な表現になってしまうのが苦しい所ですが。
本来は最初から「在る」のです。
自分が創造している世界には「在ると感じている」ものしか現れないからです。
じゃあ何で俺の願望は叶わないのでござるかって?
それは紛れも無く自分自身が創ったから望み通りの世界が出来ただけです。
「時計」を見れば「時間」を創り、それに伴い「過去」「未来」を創り、それに「他人」が絡んでくれば「あの人」を創り、「あの人はこういう性格で云々」と創り、「だからあの人がいると~何々で嫌なんだよな」と創り、「ああ嫌だ、願望実現の本でも読もう」という連続ストーリー(に見える物語)を創り上げています。
実際は瞬間瞬間にエゴが介入し、いかにも続き物のような話を創り上げているだけです。
何度も書いてる気がしますが、全部エゴのまやかしです。それに気付けば良いのです。
エゴストーリーと本当の自分には何の関連性もありません。
本当の自分は、連続ストーリーを眺めているだけでずっと静止しています。
文章で書くと誤解を招くかもしれませんが、「豊かさ」や「愛情」といった感覚も感じようと思えば感じられるはずです。エゴが勝手に話を進めても本来関係ないのですから、それによってそれらの感覚が妨げられる事はありません。
何で「豊かさ」あるいは「愛情」という感覚を感じられるのに、わざわざ「何々をしなければ何々を得られない」あるいは「いつかそのうちに」とか「もっと優れたメソッドを」とか「桑田の顔になれば・・・」とかのレッテルを貼るのですか?
感覚を感じられるって事は「在る」から感じられるわけですよ、無かったら感じられるわけ無いですよね。
花を見て美しいと感じられるのは花が美しいのではなく、あなた自身が美を持っているからです。
お金を見て豊かさを感じられるのは、あなた自身が豊かだからです。
世界は常に自分自身です。ですから最初から起き上がりこぼしのように完璧なバランスがとれているのです、
起き上がりこぼしを立たせたかったら、あれこれ押したり引いたりせずに「何もしない」のがベストなのです。