366 もぎりの名無しさん:2011/01/21(金) 00:27:10 ID:bRTkyvnQ0


認識の変化を何とか文章で書いてみました。
簡単に言えばエゴ視点ではなく

周りの「空間」「状況」視点になる事です。


小学校の工作か何かでベニヤ板みたいのに仕切りをつけてパチンコ玉を転がす「迷路ゲーム」みたいなものを作った経験がある人もいるかもしれませんが

転がってるパチンコ玉がエゴ、板を動かしてる腕が「空間」です。

パチンコ玉(エゴ)はすごいスピードで板を転がっていきます。

前方に分かれ道が見えてきました。

エゴは思います

「俺は右に行きたい!絶対に行くんだ!そのためなら願望実現法でも成功哲学でも瞑想でもお祈りでも何でもやるんだ!」

そして、パチンコ玉(エゴ)は見事に右へと曲がる事に成功しました。

エゴは思います

「やったぞ、俺は成功者だ!才能があるんだ!ナントカメソッドは効果があったんだ!」
そうこうしているとパチンコ玉(エゴ)の前にまたも分かれ道が見えてきました。

エゴは思います

「今度も右へ行くぞ、俺は才能があるんだ、ナントカメソッドを唱えれば大丈夫だ。

ええと、まず気持ちを楽にして、リラックスして、語尾をござるにして・・・

願望を叶えるでござる!」
しかし今度は残念ながら左へ転がってしまいました。

エゴは思います

「何故だ?メソッドは完璧に実行したのに!何が悪いんだ?

ござるとか言ってんのが悪いのか?それとももっと良い方法があるのか!?
どうすれば良いんだ!誰か教えてくれ!」
こうしてエゴの戦いは続きます。

何やらエゴは勝手にエキサイトしていますが、板を操ってる腕(空間)はエゴの感じている葛藤や苦しみなんて知りません。
何故なら右に傾ければパチンコ玉は右に転がるし、左へ傾ければ左へ行くのは
分かりきった事だからです。

分かれ道に入る前にあらかじめどっちかへ傾けとけば、そちらに行くのは当たり前でござる。

上記の大して面白くもない例え話で何を伝えたいのかと言いますと
これはもしかしたら受け入れ難く感じる人もいるかもしれませんが
エゴに掴まってる時には「自分には”自由意志”がある」と錯覚しているという事です。


エゴは必死に右へ行きたいと願い、“自分の意志で”願望が達成するように頑張り、“自分の意志で”右へ曲がったと思っていますが、空間の立場からすれば自由意志もクソもありません。右へ傾いてんだから右に行くに決まってんだろ、て感じです。
願望でも何でもないわけですね。

ですから>>352の答えとしては


 352 もぎりの名無しさん:2011/01/20(木) 07:51:13 ID:iTmVA0vA0


 >つまり「世界」に最初から「自分」なんて存在していなかったのです

 >「俺」とか「私」とかは幻想だったと気付けば、最後に残るのは「意識」(本当の自分)だけです。

 桑田さんはいつも「意識」(本当の自分)で生活しているんでしょうか?
 それってどんな感じですか?
 その時、いままで自分だと思っていた「俺」とか「私」はどうなっちゃうんですか?
 いなくなるんですか?  )



文章で書くなら

「自由意志が無い」(と認識している)
「周りの全てが自分である」(と認識している)状態で生活している

という事になります。


もちろん人と話す時には「私は・・」とか言いますが、個人としての私という感覚は
薄いですし、壁や天井を指差して「私はですね」なんて言い出したらさすがに気味悪がられると思うので。

そして>>336 の答えとしては


( 336 もぎりの名無しさん :2011/01/20(木) 01:06:38 ID:pLA8e/RI


 おぉ、桑田さんや!いつもながら感心する文章や。

 それで、どうやったら願望って叶うんですか?一つ具体的に頼みますわ。
 不足を感じたら、それに気づくだけでよろしいんですか?
 あぁ、今不足を感じてるなぁーとそれだけで良いんですか?
 完璧だー!とやるわけにはいかないわけですからねぇ。   )

「何もしない」という事になります。

といってもこれではそりゃないぜと思われるかもしれないので、私がやっている事を一つ書かせて頂きます。


それは、起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う、という事です。

本来は周りの空間・状況が自分なのですから、それらに対し良い気分で何か行うのは、文字通り自分への愛が成せる業です。

逆にエゴと自分を同一視している場合、目の前に壁がある部屋で、その壁を拳を血まみれにしてぶん殴り続けているのと同じです。
「この壁を壊せば何々が達成できる。この壁は俺を邪魔している、不愉快だ!ぶち壊してやる!」

本来は壁が「本当の自分」なのですから、これは自分自身へ憎悪を向けているのと同じです。結果として憎悪に満ちた事が降りかかるでしょう。

まさに文章で書けば引き寄せの法則です。

しかし、結局は認識の変化が起こらないとあまり意味がありません。
メソッドの類だけを書いてしまうと、エゴがそれを鵜呑みにしてしまう危険性があるわけです


「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う」 
これだけを読んで突然明日から周りの人に金品を配ったりしても何も変わらないでしょう、喜ばれるとは思いますが。

重要なのは、周りの「世界」「空間」が自分であるという認識になる事です

(“そう思う” “そう思い込む” のではなく、“そうである”という状態です)
そうすればエゴではなく「世界」が、あなたという「現実世界での取りあえずの形」を通して動き出すでしょう。

文章で書くと、書いてる私も何書いてるか途中から分からなくなってきましたが

言わんとしている事は読み取って頂きたい、でござる。


372もぎりの名無しさん:2011/01/21(金) 00:45:39 ID:pLA8e/RI0

僕は良く人を褒めますがあまり人からは褒められません。何故でしょうか?
叶えるために何もしない、それは結構言われてますね。
大事なのはメソッドではなく認識の変化。

さて、それはどうやったら起こせるのでしょうか?


377338:2011/01/21(金) 02:11:04 ID:LJ6dLOjo0


「人にしたことは自分に返って来る。」
「人には自分にして欲しいを思うことをしなさい」と言う考えはよく見かけますけど

桑田さん的にはそれは「絶対的な法則」だと思いますか?
それとも「その考えを採用した人にとっては絶対的な法則になる」と思いますか?
もちろん認識の変化があってのことです。


と言うのも、今日はかなり人は自由なんだと思ったんですね。
で、自分が信じられれば法則自体も作れるんじゃないのかな?とも思ったわけです。
回答しにくいかもしれませんが、回答出来るようであったらよろしくお願いします。


525 :もぎりの名無しさん:2011/01/26(水) 23:19:32 ID:391VQqOM0

>>372 >>377

法則云々については殆ど考慮していません。
「何々をすれば何々になる」という言葉自体には大した意味がありません。
人の数だけ法則はあるし、どんな法則を創ろうが自由だというのはその通りだとは思いますが、それを考え出すとエゴの堂々巡りになるからです。
ちょっと語弊がある言い方ですが、法則を信じている・信じたいのは結局はエゴですから。

もちろん書けと言われれば、法則だとかメソッドの類ならいくらでも書くことが出来ます。

「願望の実現のためにどのようにしているのでござるか?」と言われれば
「周りの人に親切にしています」とか「誰にでも自分から挨拶に行きます」とか
「空も街並みも素晴らしいと感じています」とか
「全てのものに愛情を感じています」とか「一日三食きっちり食べてます」とか
「すき屋のチーズ牛丼が美味しいと感じます」とか、文章や言葉ではそう答えざるを得ません。

ただ以前から度々書いていた「認識が変化している事」が前提としてあるので

そうでない場合、エゴが文面をそのまんま受け取ってそのまんま実行すれば
良いのかと勘違いする事が殆どです。
そうなると結局は青い鳥を求める終わりなき旅が始まってしまいます。

で、上記の内容を読んで「何が一日三食メシ食ってるだ、何がチーズ牛丼だ、
くだらねえ、俺は劇的なメソッドを知りたいのでござる」と感じた人は変化を起こすチャンスです。

何で「私は常に愛を感じています、全て完璧と感じましょう!」を「おお、素晴らしいメソッドかも」と感じ、何で「牛丼食え」を「こいつ馬鹿だ、お笑いでござる」と感じるのでしょうか。
それを感じ無意識にフォルダ分けし、分離を起こそうとしているのは何かという事に気付いて下さい。


416もぎりの名無しさん:2011/01/22(土) 17:00:04 ID:lN6BKD.6O


ビー玉が行きたいなら板である腕(空間)が右へ傾けりゃいいのは分かりました。でもその腕(空間)には自由意志は無いのですよね? なのに右へ傾けれる自由意志はあるのですか? 自由意志が無い空間なのに誰が?どう?板を傾けるのでしょう?

そしてそれを現実に応用するならばどう例えられますか?
板の上でビー玉が「彼氏彼女が欲しい」とします。で、桑田さんがおっしゃられるビー玉は「何もしない」というか、何も出来ないでしょう。欲しい立ち位置からのアクションになるので反って分離を生んだり、過剰ポがかかったりするでしょう。


で、さぁここで「周りの全てが自分だ!」という意識サイドに立ったとします。そこで「自由意志もクソもない」と桑田さんがおっしゃられるベニヤ板の腕(空間)、つまり「周りの全てである自分」だが、ここでベニヤ板を傾けるとは、この立ち位置でどうアプローチすればいいのでしょう? 自由意志がないのにベニヤ板はどういう作用で傾くのでしょう?
「何もしない」のにビー玉は右へ傾くのか? いや「何もしない」のにベニヤ板はどう?なぜ傾くのか?

「周りの世界が自分」でもこの世に肉体として生を受けたビー玉の事も愛しく、ビー玉の望み、意志も聞き入れ、尊重し、ビー玉の願いも叶えてやりたいのだ。
それがここの板の全ての人の願い、意志だと思うんですよ。是非教えて下さい。

526 :もぎりの名無しさん:2011/01/26(水) 23:19:52 ID:391VQqOM0


上記の内容の補足みたいな感じにもなりますが・・・。
これについては、転がってる玉(エゴ)を無くしてしまえば良いのです。
「玉を転がす」という書き方がいかにもコントロールが必要な印象を与えてしまったようで、これは私の文章がただ単に下手なだけです。
実際は認識が変われば玉(エゴ)自体は無くなります。
私程度ではまだまだエゴが完全に無くなっていませんが、既にエゴと自分を同一視することは全くしていない(出来ない)ので、子供のイタズラを笑ってスルーするような
愛おしさをエゴに対して感じています。

ある程度認識が変化してきた人でも、何かその人の中で譲れない、これだけは無くしたくないといういわゆる「本願」とか言われているものが根強く残る場合が多いようです。

例えば家族をとても大事にしている人が認識の変化を経験し

「実は生まれてなんていなかったでござる、全部エゴのまやかしだったでござる」

「ああ、全部完璧でござる。ニンニン」と言っているとします。


その人に対し「あなたは本当は生まれても無いわけだから奥さんや子供も
本来は存在しないんですよね」とか言うと「とんでもない事を言うな、喝ーーっ!!」と
過剰に反応する場合があります。

これは認識の変化によって居場所を失ったエゴが、最後のあがきとしてその人の最も大切にしている願いを利用しているケースです。


つまり

「私は世界=自分であると認識した!ウヒョー」に対し
「じゃあそれを利用して本願を叶えましょうや!ウヒョー」と知らず知らずの内に巧妙にエゴが寄生するのです。


認識の変化の初期は強い幸福感を感じるものです。

その幸福感に紛れ「こんなに幸福なら本願だって叶うよ、イヒヒヒヒ」と潜り込むのです。

これでは「優秀なメソッドを探すでござる」→「見つけたでござる」の
エゴの堂々巡りと何も変わっていません。

叶えるという概念がある以上、それは不足を求めているのと同じです。

ただ単に言葉が変わっただけで認識は1ミリも変わっていません。

では自由意志を越えた領域に潜り込むにはどうすれば良いのでしょうか、
潜り込むというか、結局前と同じ内容を表現を変えて書くだけですが。

誤解を生む可能性があるので、願望実現という言葉はあまり使いたくないのですが、願望の実現を言葉にせよと言われたら「静寂の中で静寂を知る」行為と言えます。

静寂は、それを静寂と認識するものがいないと静寂になり得ません。
それと同じく空間も、それが空間であると認識するものがいないと空間となり得ません。
呼吸も、それが通過する肉体(と認識しているもの)が無いと呼吸となり得ません。

では何故周りが静かだと「静寂」を創れるのでしょうか。
何故、空を見上げると「空間に」青空が広がっていると感じるのでしょうか。
何故、「呼吸」すると「呼吸」という概念が瞬時に分かるのですか?
何故「お金」という言葉を見たり聞いたりすると一万円札が浮かぶのでしょうか(500円玉でも良いんですけど)

そもそもなんで一万円札と分かるのですか?
色で分かる?形で?紙だから?諭吉のオッサンが書いてあるから?
じゃあそれらの概念を瞬時に創っているのは誰ですか?

そして瞬時に今は未来だと過去だとか判断しているのは?
「時間」も「時間」を感じるものがいないと「時間」は成り立ちませんよね。

そして今は「それを持っていない」とか「持っている」とか判断しているのは?

一体誰が静寂を静寂たらしめ、誰が空間を空間たらしめ、誰が呼吸を呼吸たらしめ、誰がお札をお札たらしめているのでしょうか?

自由意志で「行っている」と思っている誤解の元の全てはここにあります。
「何々をやろう」「何々を得よう」というのは瞬時に浮かんだ思考やイメージに
操られているに過ぎないという事です。

ちょっと文章にするのが難しいですが、普段普通に呼吸する時は特に何も考えてないと思います。

呼吸した後に「呼吸」という思考・概念・イメージを「それ」(この場合は呼吸という行為)にくっつけて、「ああ、呼吸している」と感じるわけです。

何で「それ」が浮かぶんでしょうか?自分が創ったからですね。
そして名前を付けられない「それ」に思考や概念・イメージをくっつけて、いかにも「これがあなたの真実だよ」みたいな顔をしていたのがエゴだったんです。

世界は自分の内面で創った「それ」がそっくりそのまま投影されていただけだったのです。自分こそ「それ」だったのです。
「それ」に気付く事が出来れば、紛れも無くこの世界は自分であり自分だけ、という真実が見えてきます。
良いも悪いもなく、全ては完璧としか言えない宇宙が、本当の自分です。


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