以上、西日本の高校の取り上げ方を問題にしてきたが、これが、既に示唆したように、本書の主題と関わっている。
本書は、序論から旧一中(だけ)を地方名門公立校として、取り上げながら、180ページにおいて、学区制、筆者独自の分校システム、愛知の複合選抜制を肯定している。これによって、各地域の高校が生きるのであると。そうであるなら、逆に、旧一中ばかりでなく、地方の地方にある(群部などと呼ばれる)高校をもっと取り上げるべきではないのか。そして、私がこれまで指摘したように、地方の地方にある高校にも優れた高校が多数存在し、彼らもまた旧一中あるいは二中に負けない、見方によっては勝るだけの、学力や志を持っているのである。
190ページ以下においては、ダイバーシティ、多様性の言葉が見える。地方の中にも、ダイバーシティ・多様性はあるのである。むしろ、学区制を肯定するならば、この地方の中のダイバーシティにこそ注目すべきではなかったか。また、旧一中(さらには二中)に対して過大は評価を与えることは、他の高校出身者に対する排他性をも生み出す弊害は、地方に住んでいたことがある私には痛いほどやくわかる。
例えば旧二中を出たからといって、一流大学に受かるにわけではない。むしろ、受からない者の方が圧倒的に多い。一方、ど田舎の高校生や高校中退者が東大に受かる場合もある。高校受験よりも大学受験の方が、教科内容的にも、精神年齢的にも、知的にも、高度な勉学態度を必要とするし、本格的な学問への第一歩となる重要な知的訓練である。これを経た者の価値は、例えば地理的制約で選んだ高校の序列よりも、重視されるべきではないか。少なくとも、どちらとも重視されるべきではないか。
青年になるまでに何らかの選抜はどうしたって行わなければならない。それを行っていない国はないし、むしろ、外国の方が厳しい。それが、わずか15歳での初等的なテストでの評価で決まってしまうのは、不公平である。第2回選抜でもチャンスがなければならないし、第2回までに一応のスクリーニングが行われるわけである。もちろん、第三回があってもよいだろうが、だいたい第2回、少なくとも第3回までには、知的な意味でのスクリーニングはほぼ定まるであろう。
もちろん、こうした言い方が露骨なのはわかっている。ただ、旧一中も(もちろん、私があげた地域の拠点校も)この露骨な選抜の上に乗ってきたことも否定できまい。そういう前提があってこそ、その葛藤の上に、その学校の伝統やスクールカラーが根付き、まさに人をつくってきたのである。本書の最後には、資料として、各県の高校が偏差値順に形式的ある意味露骨に並べられている。学区があれば、県庁所在地の3番手から5番校が上位にきてしまうのであって、私があげた伝統・特色・進学実績がある地域拠点校はほとんど無視され表には出てこなくなる。本書の失敗は、こういうところにも見て取れる。逆に、私は、その露骨さに大きな疑問をぶつけるためにこそ、この文章を書いたわけである。