さて、前回の「大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(前篇)」の続きです。

○大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(前篇)
http://ameblo.jp/tatthu/entry-10380349078.html

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◆ラインナップ(予定)◆
1.大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(前篇)
2.大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(後篇)
(以上、今回まで)
3.現行規制の問題点と論点整理
4.「適用除外」制度を巡る議論-小泉改革と学説-
5.公取委「農協ガイドライン」と農協の反応
6.独禁法違反を減らすために(最終回)
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◆農協は独禁法違反に陥りやすい!?

実はこのような保護利益の立場からみて、農協は独禁法違反に陥りやすいのでは・・・との見解があります。

ポイントは農協が、
①事業者の利益向上を目的としている組織体で、
②独禁法上も「まとまる」ことが期待されている存在である。
という点です。

・まず①の点については、根拠法の条文規定を見比べてみるとよくわかります。
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「この法律は、農業者の協同組織の発達を促進することにより、農業生産力の増進及び農業者の経済的社会的地位の向上を図り、もつて国民経済の発展に寄与することを目的とする。(農協法第1条)

「事業支配力の過度の集中を防止して(略)一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、公正且つ自由な競争を促進し、(略)以て、一般消費者の利益を確保するとともに、国民経済の民主的で健全な発達を促進することを目的とする」(独禁法第1条)

==========================================

最後の「国民経済の・・・」という目的は良く似ていますが、それ以外の目的や達成手段が全く異なりますね。

素直に条文だけ見てしまえば、農協が追求すべきは『事業者の利益』であって、消費者の利益を追求する独禁法とは全く立場が異なります。もちろん現実はこう単純ではないですが、根本的な原理として農協は独禁法と異なる考え方で動きやすいということでしょう。当然違反事件も起こしやすくなります。

 
・次に②の点ですが、実は独禁法では農協をはじめとした協同組合組織は大変な特別扱いを受けています。
第22条の適用除外規定問題です。


==========================================

「この法律の規定は、次の各号に掲げる要件を備え、かつ、法律の規定に基づいて設立された組合(組合の連合会を含む。)の行為には、これを適用しない。」(独禁法第22条)

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あれ、農協に独禁法は適用されないんでしょうか(笑)
もちろんこれにはカラクリがあります。この点については重要な論点なので、次回以降詳しく検討しましょう。ここで問題にしたいのは、なぜこのような特別扱いをうけているのか、という点です。

協同組合というのは、本来は中小事業者や消費者が協力しあうことで大企業に対抗し、自分たちの利益を防衛し市場の競争を促進させることを目的としています。農協の場合は、個々の農業者がまとまることで大型商社やメーカーといった大企業に対抗し、あるいは搾取される可能性を排除しています。

独禁法に即した表現をすれば、『公正且つ自由な競争を促進』のために「協力し、まとまる」ことを使命づけられたのが協同組合であり、農協だと言えます。

だからこそ、『事業支配力の過度の集中を防止』と言う観点からは規制しない、というのが今の独禁法の農協に対する規制姿勢にです。

そもそも強い事業者に対抗するため「まとまる」ことが期待されているわけですから、対抗するべき何かがでてくると、「あーそれはやりすぎなんだよなあ」というところまで「まとまる」ことに執着してしまうことがたまにある。そんなたまの出来事が、独禁法違反事件として表出してしまいやすい、ということです。

(これが「たまの」出来事かどうかは議論のあるところなのですが、この点も次回以降で触れて行くことにします。)

◆さて、次からは各論検証にはいっていきましょう

以上、大分の事例を足がかりに、農協と独禁法の関係について基本原理の面から記述してみました。
しかし、具体的な制度上の問題についてはまだ触れられていません。

独禁法による農協規制のあり方については様々な議論がありますが、
自分なりに問題点を整理すると大きく分けて以下の3点です。

(A)告発ラインの整備・未整備
(B)「不公正な取引方法」を行いやすい農協の事業体制
(C)「カルテル」「私的独占」適用除外の正当性

次回、これらについてもう少し詳しく触れてみたいと思います。
ふと振り返ると、独禁法を学び始めて2年が経ったのですね。
まあほんとささやかな学習ですが・・・。

学生生活ももうすぐ終わることですし、
自分の関心事を公開の場で書きとめておくのもいいかなと思いはじめました。

そこで、今後このブログでは数回に渡って「農協と独禁法の関係」について書いてみることにします。

なんで農協なの?ということなんですが、
自分が独禁法を学び始めたきっかけというのは実は農協なんですね。詳しくは書きませんけれども。

まあ独禁法の基礎を勉強するのに精いっぱいで本テーマについてガリガリ勉強できたわけではないのですが、いち消費者として多少なりとも『あるべき規制の姿』を検討してみたいと思います。

読者の皆さまには、コメント等によるご指導頂ければ幸いであります。はい。

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◆ラインナップ(予定)◆
1.大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(前篇)
(以上今回まで)
2.大山町の事件から根本原理を振り返ってみる(後篇)
3.現行規制の問題点と論点整理
4.「適用除外」制度を巡る議論-小泉改革と学説-
5.公取委「農協ガイドライン」と農協の反応
6.独禁法違反を減らすために(最終回)
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□□1.大山町の事件から根本原理を振り返ってみる□□

◆独禁法違反てどんな事件なのか?

・分かれる反応 大山町農協への公取委検査(2009年7月)
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_124882969137.html
・大山町農協を検査 独禁法違反容疑で公取委
http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_124876357963.html

つい3か月ほど前、大分県の農協に公正取引委員会の検査が入った、という報道ありました。

『組合員に対して出荷先の制限を行った疑い』があるそうです。

07年以降、公正取引委員会も農協も独禁法違反事件を防止するため新たな施策を実施しているのですが、
その成果を裏切る事件だけに少なからず落胆した方もいらっしゃることでしょう。

リンク先の記事によれば、大山町農協の行為について「自由な競争が阻害されている」と批判の声が上がる一方で、「地域ブランドを守るためにはやむを得ないのでは」と擁護する声もあるとされています。

今回は問題の具体的な検討に入る前に、
独禁法違反事件とはどんなもので、独禁法の根本理念は何なのか、大分の事例をもとに振り返ってみたいと思います。


◆何が問題とされたのか?

さて、そもそも問題となる行為がなければ検査なぞされません。
大山町農協の場合、どのような行為が問題となり独禁法違反の疑いをかけられたのでしょうか?

各報道記事をまとめると、簡単には次のような経緯だったようです。
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<大山町の事件経緯>
⇒もともと大山町農協は地域ブランドづくりに熱心で、「一村一品運動」のモデルにもなった。
その一環として、直営レストラン・農産物直販所の「木の花ガルテン」を経営していた。

⇒そんななか、同直販所に農作物を出荷していた組合員が収入を増やそうと同直販所のライバル店にも出荷しようとした。

⇒ライバル店に売上を取られることをよしとしない農協側は、組合員に「それならうちにはもう出荷させない」という話をもちかけた。商品の販売チャンネルが増えるとブランド価値が低下するという危惧もあったらしい。

⇒農協側の話をうけた結果、組合員はライバル店への出荷を諦めた。
=========================================

ポイントは「うちにはもう出荷させない」と要請をした行為です。
これはとどのつまり圧力と解釈され、独禁法上「不公正な取引方法」として規制されている行為類型のうちの「排他条件付取引」などに該当する可能性があります。

なぜ農協側の要請は問題になるのでしょうか?

「収入を増やしたい」という組合員の主張は極めて自然ですが、「他店に集荷させたくない」「ブランドを守りたい」という農協側の主張もわからないでもありません。既述したように、「地域ブランドを守るためにはやむを得ないのでは」と擁護する声もあります。

細かい要件論などはあるのですが、別に法律ゼミではないのでこの辺は省略して、
より一般論に近い独禁法の保護法益からこの問いを考えてみることにしましょう。


◆独禁法が最後に守るのは『最終消費者の利益』

確かに、ブランドを守るため取引先へ注文をつけるというのは経営努力の一環かもしれません。
しかし、問題はそれが『最終消費者の利益』になるのかどうかということです。

独禁法と言う法律は、『公正かつ自由な競争の促進し、一般消費者の利益を確保すること』を目的にあらゆる事業者の活動を規制しています。

ズルして他の事業者を妨害したり、競争者同士で企んで価格を高くつりあげるなど最終消費者の利益にならないことはやらんでね、ちゃんと競争していい商品・サービスつくってね、という感じでしょうか。

今回のケースで考えると、大山町ブランドの産品が農協直営店以外で買えるようになることは消費者にとって悪いことではありません。やっぱり、ほしいものは色んなところで買えた方がいいですから。

また、商品の内容や直販所のサービスも他店と競争してもらったほうが良くなる可能性のほうが高いでしょう。出荷者のとりあいも競争を前提に考えればごくごく自然な話です。「努力してつくってきたブランドが・・・」「ブランドが上手くいってから自分だけ乗り換えるのは道義的に・・・」というのはあくまで事業者側の都合に過ぎません。

つまり、最終消費者の利益を考える独禁法の立場からは「出荷制限という要請」は事業者側の都合にすぎず、斟酌されないとうことになります。


◆農協は独禁法違反に陥りやすい!?

実はこのような保護利益の立場からみて、農協は独禁法違反に陥りやすいのでは・・・との見解があります。

・・・と思いのほか長くなってしまったので、以降は次回の記事に引き継ぐこととします。
ノーミュージック、ノーナレーション。

肉や野菜、普段スーパーやコンビニなんかで売ってる食品の加工過程を延々映しつづけるドキュメンタリー、「いのちの食べ方」(http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/)

たまたま機会が重なって、ふと観に行ってきました。

枯れ葉剤で一気に枯れていくひまわり。
淡々と切り裂かれれる豚。
作業員によってなげられるひよこ。

コンベアーからぴよぴよと吐き出されるひよこには、心の中で思わず爆笑してしまった。
「かわいそう」なんだけどね。

ここに描かれる動物を憐れんだり、淡々とした作業工程と現代人の神経に憂いを感じるような視点は自分にはない。ただ、頂く「いのち」に思いをはせる前に、それらの間にある人間の仕事をリスペクトできなければ同じことだろうとは思う。

肉を切りわける作業員、商品となったそれらを売る店員、食事をつくってくれる誰か。

頂く「いのち」が遠すぎるのは、もしかしたら現代的な問題なのかもしれない。でも、人間の業もいのちの処理も決して現代的な問題では決してないし、いつだって忘れられがちなのは仕事としてのそれだと思う。距離の遠さに焦点をあてるとき、いのちと食の距離をつないでいる人々のことを、その仕事を、どれだけ意識できているのだろう。

「いただきます。」よりも、「ごちそうさま。」のほうがまずは大事じゃない?

もちろん、ここで言いたい仕事という言葉には、ビジネスとか雇用とかの意味も含んでる。



ドキュメンタリーとしてのこの作品は、誰かと一緒に見に行って、その感想を共有しないと面白くないと思う。

自分の場合、ヨーロッパの作品だし、別にいのちを大事にとか思ってないし、背景の共有がなさすぎて、作者の世界観がなかなか手元までおりてこない。特に、ヨーロッパと日本という土台の違いは致命的かもしれないとも思う。

ドキュメンタリーの中には作者の解説や演出のはっきりしたものも多いけど、これはその類じゃない。何の音楽も解説もなく、ただ映像だけ100分近く流される。ずっと観ているのは正直つらいし、明らかに睡眠作用がある。最後の方とか、圧倒的に眠い。はっきり言って眠い。そして、作者の世界観がまるで見えない。

むしろ、この映像を観た人自身の世界観を問う作品であって、映像に対してもった感想や切り口によって否応なく明らかになる人の世界観を、同じく作品をみた自身の切り口と合わせてみることではじめてこの作品の視聴は終わるのではないかと思う。そういう意味では、秀逸な作品なんかねー。

作者と自分。自己と他者。

世界観は交わらないものなんだと観客に感じさせてやっと、この作品のドキュメンタリーとしての意義が引き出されるような気がした。

春先の心地よい季節に「牛タンでも食いてー」と思い、仙台モギの合宿に参加させてもらいました。

ほんとは新人強化会議なのにもかかわらず、札幌から参加した新3年生が2人www(KY

これからも交流が続けばうれしいなと思いますね。仙台モギの温かい雰囲気が大好きです。



さて、今回の議題は「安保理改革」だったのですが、多分に難しい議題でありました。

某前代表いわく「いくつ議席を増やすとか、任期何年にするとか、各国の政策の根拠がわかりにくい。」

自分もはじめてこの議題をやってみて、この感想に非常に共感します。

例えば、札幌でついこの間やったPKOの活動基準についてであれば「人権」や「国際法」といった観点などから自国の政策の根拠なり正当化がみえてくるのですが、安保理改革というのは多分に各国のパワーゲームという側面をもち、シミュレーションする人間からすれば「一般人が公開情報からは想像しえない国益」に大いに振り回されることとなります。

模擬国連が学習方法として優れている点は、法学なり政治学なり経済学なりの難しい概念を国家間外交という枠の中で咀嚼することで、参加者が概念を運用してみたり、その恣意性(多面的理解という側面も含めて)まで
考えることができるという点だと個人的には考えています。

なので、シミュレーションにおいて自国の主張の「正当化」というのはとても大事な作業だと思うのです。

僕にとっては、相手の主張に対していかに反論するかよりも、どのような概念をどのように運用して主張するかのほうが大事なんですね。

そんな視点から安保理改革という議題を見てみると、そもそも「正当化」の余地がたいして残ってない(笑)
残ってないというのは、「正当化」できないということではなく、そのレベルがめちゃ高いてことです。

政策の根拠がわかりにくい分、各自の創造性が問われるという言い方もできるのですが、はっきり言って出来ません(笑)往々にして、単なる理屈で終わってしまっていることの方が多い気がします。

安保理改革という議題で学術的な成果をあげようとすれば、「なんで議席数増やすの?」とか「安保理てなんで改革しなきゃいけないの?」という単純な議題理解だけではなく、モギコクでやるような議題全般、強いて言えば国連が関わる国際問題全般への造詣wが必要になるのでしょう。

そんな意味で、ものすごく「難しい」議題だなと。

とはいえ、国際「社会」としてのあり方と、国連という「組織」の有用性や効率性が同時に問題となるので国連という世界秩序を考えるのにはとてもいい議題だし、論点や対立軸が明確な分、「交渉」を存分に楽しめるのは確かです。

アメリカが議席数いじった案出すだけで、2グループが分裂するカオス(笑)

多くの研究会が新歓に使う理由がよくわかりました。



ついでに、かなり簡単ですが今回担当したオランダのレビューを書いておきます。

【議題】安保理改革
【担当国】オランダ
【基本外交方針】
・親米、国連重視、EU強化
・アフリカへの開発援助大好き
・おそらく国民感情は嫌日
・日本の常任理事国入りは不支持、ドイツに対しては好意的
・安保理改革では調整国として重要な役割をはたしているが、現状維持に近い主張で少なくとも急進派ではない。

【論点ごとの態度】
1.クラスターⅠ(議席拡大)
・常任理事国の議席拡大⇒反対
・非常任理事国の議席拡大⇒賛成
・将来的な常任議席拡大⇒賛成(少なくとも反対ではない)
・拒否権⇒現状維持。新常任への付与については「要検討」

2.クラスターⅡ(安保理の透明性と開放性の向上)
安保理入りの目がほぼない国なので、当然向上には賛成。

【雑感】
オランダって基本的に安保理改革する気ないんじゃね?というのが印象w
なんかむしろ調整役を演ずることで時間稼ぎを目論んでいるのではないかという雰囲気まで伝わってきます。
典型的な中小国ともいえますが、考えれば考えるほどよくわからないので、
もう少しこの国の外交については調べてみたいと思います。

会議的には、同じく常任拡大反対であるS5のスウェーデンと組んでコーヒーを励ましG4をつぶしにかかるなど、
中小国の中でもなかなか面白い積極策のとれる国ではないかと思います。まあ事前交渉を駆使出来ればの話ですけれども。僕はやりません。

議場に火を着けたり煙を立てたりするのがお好きな方は是非お試し頂きたいと思います。笑

【リサーチソース】
・国連改革に取り組むNGO系組織のサイト。各国の立場表明やステイトメントが見れます。
http://www.reformtheun.org/index.php/issues/1737?theme=alt4

・藤田久一『国連法』東京大学出版会

「安心と安全は同じ概念ではありません。・・・実際は、安全なのに安心でない場合もあります。ここに多くの企業の取り違いがある」

―新日本監査法人『CSRはどのように報告されているか』


「愚か者は倹約しようとして騙されていることに気付かない。2フランきっかりで食べられたらそれこそ奇跡だからである。」

「前日に同じ魚がたくさんとれると、今日もそれが出てくる。もちろん、すけとう鱈が少々くずれかかったり、えいがほんの少し酸っぱかったりはするだろうが・・・。あまり仔細に見ない方が良い。プロヴァンス風ソースのおかげで、にんにくがこれらの欠点を消し去ってくれるだろう。」

―J.P.アロン『食べるフランス史』



以前、農家との勉強会で食意識についてやりとりしたときのこと。

農業体験は食意識を変えるきっかけには必ずしもなりえないのではないかという意見に対して、「自分は長期で農業をしてみて、やっぱり食への意識は変わったから、効果はあると思う」とサークルOBの方に言われて考えてしまった。

そして、ある人からは農家の方が食意識は低いのではないか、とも。

変化の定義が問題なのか体験の長さが問題なのかわからないが、ただ言えるのは、それは「いのちの大切さ」とか「自然の良さ」いうようなものではなく、「原価価値の認識」というような具体的な概念になってはじめて食生活へ反映されるのではないかというとこだろう。

良く言われているように、農と食の距離以前に人と食との距離自体が測りづらい。



3月上旬にあった、食の安全に関する国際ラウンドテーブルin東京青山

学者や政治家がパネラーとして集まったこの機会で最も印象に残ったのは、「この問題のゴールはどこにあるのか?」という問いかけ。


「この問題のゴールは、お客さまが安心・安全を考えずに買い物をできる環境ができること」とは一般質疑のトリを飾ったオイ○ックス社長。

「自己判断など、お客さまは望んではいないのではないか」

自己判断の原則は、一般参加者の発言でもパネラーのプレゼンでも、この会場で大勢を占めていた前提概念だったと思う。

国際協力の議論における国家でも一般消費者でも同じで、「国際統一基準」「情報共有」「管理体制構築」「消費者教育」などの議論のほとんどがこの原則のうえに成り立ち、この原則に収束する。客体が国家だろうが企業だろうが個人だろうが、供給主体とその管理システムは彼らが自分で判断できるだけの情報を出しましょう、と。一方、客体はそれを判断する意識や力を持ちましょう、と。

ものすごく疑問に思う。「自己判断のない状態」てどんな状態なのかー?

社長のいうような「安全・安心について自己判断のない環境」というのは確かにひとつの理想かもしれないけれど、そのような状態にいたるためには、供給者への自己判断という過程が必要になる。

フルコストプライシング―商品に掛る費用を明確に値段へと反映させるべき―という考え方は、企業と人との関わり方に一定の答えを見出したうえではじめて出る答えだし、自給率をあげろという議論は無自覚的にひとつの判断をしている。何よりも、「食べる」という行為の目的に対して、無自覚的ではありえない。別に、空腹を満たすためだけに食べるのではないと思う。

「自己判断のない状態」はこれらの前提を経ているのだろうか。例えば、契約と信頼どちらを思っているのかいうことについて。

EUで盛んと言われる民主主義の正当性に関する議論にもどこか似ている。

何にしても、食べるという行為や食べるものを買う、ということについて目的的になれなければ、それらの含む社会性について自覚的でなければ、手法についての議論や知識は虚しくなってしまう。



J.P.アロンは19cのフランスの食生活をして、革命を経たブルジョアの権力装置だと言っている一方で、「食べる」という行為の目的の変化や何を食べるのかということに対する貴族的なプライドが20cには衰退してしまったことをを嘆いている。

「出かける必要がある。従って衣装代を捻出しなければならない。それ以外に娘たちを片付ける方法はないのだ。そこで、家ではパンや牛乳や古びて悪臭を放つバターを削りとるようにして暮さなければならない。」

「去年、秀でた食べ手で昔風の流儀を愛するある作家が、売れっ子のシェフから償いようのない侮辱を受けた。・・・穏やかに苦情を述べた彼が答えの代りに得たのは、この得たいのしれない代物は勘定書にはつけないという断言だったのである。」

自給率や安心・安全の話が出るたびに、食糧は人間が生きるための根本というような話が出るけれど、もはや今の人間が「食べて」いるものは「食糧」でないのは確かだろう。「食べる」ことを通じて、社会性や制度や哲学を表現しているに過ぎない。

食や農への判断というのは、社会的関係性の判断に他ならず、この問題のゴールは、社会の成熟というのは言い過ぎだろうか。

少なくとも、WTOやSPS、グリーンツーリズムや教育といった議論から設定できるものではないだろうとは思う。

食の安全―国際取引、持続可能な生産、社会的責任について考える

Food Safety – International Trade, Sustainable Production, Social Responsibility



080301 国連大学

 

0.開会挨拶

ペセリン・ポポスキー 副学長代行

リオ・プラーニング Public Advice International Foundation事務局長

 

【国際的な課題】

・情報共有

・ルールづくり

・リスク評価

・教育

・モニタリング

・正しい情報の公開

・健康と環境

・清潔な水ときれいな大気

 

1.日本の食の安全への取り組みと課題

尾辻秀久 自民党参議院議員会長、元厚生労働大臣



農水省の資料棒読みくさいので省略。

 

2.国際取引:途上国と貿易大国間におけるパターン、要求、役割の変化

オビジオフォー・アギマム 国連大学 学術研究官

 

「世界文明の進化、グローバル化による新しい文明の中で企業利益の追求があり、その裏の立場にある人が政府の力を強めている。現代は、この2者の緊張関係で成り立っている」

By リチャードソン

 

「グローバル化の要請は人類共通の開発を進めるが、そのかわりに我々は公衆衛生を失うかもしれない。」

By ?

 

◇各国による貿易→経済成長

環境・権利・公衆衛生・労働のバランスをどうとるか。

 

◇「健康」の外交史

15C コレラ・ペスト流行

19C 国際衛生会議in欧州→アジア、アフリカからの伝染病を防ぐため

 

GATT20条、SASを経て、「リスク評価(確かな科学的立証と証明)」が重要に。義務化。

⇒保護貿易の防止。

But 科学は不確実。各国は予防原則をとれるのか?

 

WTOによる紛争ケース

Beef Hormones dispute

US/Canada v.s EU

「科学的リスク分析なし」とEUの輸入禁止を保護貿易と認定。米加勝訴。

他 2例

⇒公衆衛生よりも貿易が優先の時代。

・科学的根拠の重要性

・マーケットアクセスのコミットメント

 

◇南北問題

先先間と先途間の違い。

⇒低開発国は技術・モニタリングができるのか?

 

◇結論

・貿易規範は共通であるべき。

FAOWTOSPSなどは共通のベンチマークをつくり、公衆衛生を促進するべき。

WTO規約のバランス(環境・権利・公衆衛生・労働)をいかに高めていくか。

 

3.中国の食の安全

秦貞ケイ  中国検疫科学研究院 院長

 

◇中国食品生産事情

生産大国、一部を輸出。

輸入品のニーズも高まっている。

 

06年度 食品企業の生産高は、全工業額の6.8%。前年比伸び率23%。

加工食品増

 

◇管理体制

全国・地方レベルでの取り組み。

原水から調査するなど、畑から食卓までの管理システムが確立。

・問題が起きたら徹底的した原因追及と処罰。

・加工技術の向上。

・企業認証制度。輸出企業は認可を受けてはじめて輸出できる。

・輸出の際は相手国の基準に合わせる。合わないものは廃棄処分。

・リスク管理の力点。リコール、トレサビリティー、違反企業の通報・ブラックリスト制度の確立。

(今後の取り組み)

・モニタリングや検疫技術、研究サポート力の向上

・全国レベルのネットワーク

・大企業10万社をはじめとした意識向上。

・認証制度の一層の整備。

 

◇安全基準

・食品安全関連の法規は10ほど。食品安全法について現在審議中。

・地方レベルでの細かい基準。

・業界基準は2000ほど。

 

◇問題点

(輸入)

・管理体制

・先進的な検疫設備

・相手国への通報体制の向上

・企業の認証合格率向上

 

(残留農薬)

問題があるのは確か。

5万ケースにわたるサンプル調査と新法制定(予定)。

相手国との協力関係があれば、解決できる問題。

 

◇今後の国際的課題

・統一的な国際基準を取り入れることは重要

⇒収益がないと貿易は育たない。できるだけ途上国に配慮した基準づくりを。過度の規制はどうか。

・情報の国際的共有体制。検査方法、データ、設備の共有。

⇒技術進歩の速さを考えれば、国際的な技術交流がなければ統一基準は成り立たない。

・途上国のものがすべてはねられてしまうことは、必ずしもいいことではない。
無駄にサブタイトルをつけてみたwよくある3カ年計画標語www
これまでの2年間とこれからの1年をパロってみるとこんな感じになるのかなあと。

たまには所属サークルのひとつについて書いてみようと思う。

別に立ち上げメンバーでもないし、サークルに学生生活かけてます!って時期は過ぎたのだけど、なんだか2年間みてきたこのサークルについて書きとめたくなったんですね。なんでだろう。

自分目線からのサークルの過去と、個人的なまとめをぼちぼちを落としていく。


■アキレス健
「気軽に現場へ」「現場から勉学へ」

この2つをコンセプトに農学部有志の先輩方がたてた某サークルも、なんだかんだで3年目突入。
自分が入学と同時に入部したのは設立まもない1年目のことで、

もともと、農業高校出身の先輩の掲げた「農学部なのに農場現場に行く機会が少なすぎる!じゃあつくれ!」っていう大目標のもと、されぞれやりたいことを抱えた人々がその実現に向けて集まった集団だった。

メンバーの学年も価値観も経験も雑多で、なによりも設立初年度の前向きで挑戦的な雰囲気が当時1年生の自分には居心地がよかったのだけれど、大学1年という状況も含めて、なんかあういう雰囲気の感じかたをすることはもうないのかな、と思う。

3年目の今と大きく違うところは、現場に行く対象が主にサークル外部の人間で、サークルメンバーは提供側である、という点。

合宿型、週末訪問型など、様々なプログラムを用意して、それらをプロジェクトとして企画・運営していく―。

当初、NPO法人化という最終目標も一部あったくらいで、それは少々大げさで的外れな感はあったとしても、目指す主旨とか方向性はある程度近いとも言える。

「多くの学生に、現場にいく機会を提供する」

サークル外部に向けて、何かを発信してつくりだすという大義名分が設立当初にはあった。

現場にいく機会をつくるという、行動そのものを目的にできた、ある意味集団として一番幸福な時期だったのかもしれない。


■「何のために」
設立初年度の6月前後、新入生と上級生の意識の乖離はこれ以上ないくらいひどかった。

4月の新歓時期から、自分も含めて最大10人の新入生が入部。
急な人数増加に立ち上げメンバーの先輩方はとまどいもあったはずなのだけれど、新入生も含めて多くが期待感をもっていたのではないかと思う。それは、当時の雰囲気でわかる。

ただその期待感は、
漠然と「農家へいける」と思っていた多くの新入生と、広く農家へ行く機会を「創り出す」ことを目指していた立ち上げメンバーの間での「誤解」と同義だったと言ってもいいかもしれない。

外部に何かを提供するためには、多くの事務作業をこなさなくてはいけないし、
メンバー自身の農業に対する考え方だとか、現場でやりたいことだとかはどうしても二の次になる。
それは、多くの新入生にとってとまどい以外の何物でもなかった。

そもそも、立ち上げメンバーの間でも完全に考え方が一枚岩であったわけでもない。

後々他の場所でメンバー間のコミュニケーションを尽くしてもどうにもならないような状況を経験したが、そもそも全体でのコミュニケーションすらとれないというこのケースは、なかなか珍しいのではないかと思う。かといって、誰の責任でもない。

サークルイメージや目的意見の食い違いが目に見える形で現れたこの時期に、公式の場以外で立ち上げメンバーがどういう手を打っていたのか正確には知るべくもないけれど、少なくとも公式の場で話し合えるだけの土壌もなかったのは確かだろう。

結局、表向き大きな意見対立もなく、新入生の大部分がやめる形で静かに事態は収拾した。


新入生は新入生で、集まってコミュニケーションを取ろうとしたもののなんだかんだでそれすら実現しなかったし、
当時おそらく新入生の中で一番運営メンバーとの距離が近かった自分も、調整に走るつもりが結局何もできなかった。一緒になんとかしようと言っていた同期とも、当時の方針に対する温度差で意見が合わず、企画もかたちにすらならなかった。

今でも、このときにどういう手段があったのか少し考えるときがある。
大学のサークルという、良くも悪くもぬるい環境を思い出すとき、これからも思い浮かべるのかもしれない。


集団としてひとつの志があって、その実現に向けて走った一方で具体性と細やかな部分での取りこぼしが目立った、志向という言葉が良く似合う1年だった。

個人的には、「大きな物語」を信じることが出来た、古き良き最後の時代。

他に表現が思いつかなかったけど、別に「リアリズム」なんて大げさな話ではないかもしれない。

このごろ、某農業サークルの個人研究テーマを考えあぐねている。

サークルの個人研究とはいわばエセ卒論企画で何でもいいっちゃいいのだけれど、

なんだか考えれば考えるほど概念的というかなんというか、最終的に「農業」から離れていく感じがしないでもない。

自分としては嫌いな作業ではない。でもやっぱりサークルのコンセプト的にはできるだけ現場に立脚したいと思う。



ここ数日ハーバマスさんの某著作とか2次文献を読んでいたせいか、

社会科学とか社会理論のとりとめのなさとか、あるいは頭の中だけで完結してしまう「社会」への、ある種の恐怖みたいな感覚を少し思いだした。

別に似たような感覚はたまにあるのだけど、今回は中高生のときに感じたのと感格的に似ているような気がしてなんだか懐かしい。

こういう感覚を埋めるために1年のときは色々やっていたのだし、今でも少しその一部は続いている。

ずっとこんなだと困るのだけれど、きっと後むきな傾向ではないと思う。

若干うつ傾向なだけかw



で、個人研究。

はじめに思いついたのは、農村社会学の地域研究と農業利水のシステムを調査して、途上国の水に関する民主ガンバナンスに当てはめて考えてみる、という道筋だった。

正直、「水」「農業」「国際」「社会学」という、自分の関心事を大体かき集めてみましたという感はぬぐえないが、
アプローチ自体はたいして珍しいものではないのでおかしくはないと思う。

問題は、自分にとってそれがどの程度「リアリズム」を含んでいるか。含められるのか。

調査といったところで、サークルで関わっている「現場」の意義がどの程度あるかも謎。そもそも、最終的なベクトルが農業に向いていないのが難しい。

なんというか、この考え自体というよりは、この発想がまず先に出てきた今の自分の思考回路に、ふと立ち止まってみたくなった。

今の自分が「農業」に向ける視線はリアリズムに欠ける。そう感じる。


どうしようかねえ。まだ下調べが不足してるけど、まあいずれにせよ「水」「社会学」は関わらせるかな。

やっぱ資源保全政策の検討とかグリーンツーリズムあたりが妥当か。

何よりも今、純粋に農作業がしたいというか畑でのんびりでもしたいと思う自分がいて、

気分は明らかにグリーンツーリズムを希望する都市住民である。

「‘私たち’が本当に話を聞くべき人は、実はこの場にはいない」

ディスカッション初頭から議場にあがって、分科会を通じて最後までくすぶり続けた課題。


「君たちは、なんだかんだで特権階級なんですよ」


 

「なぜ今ここで、沖縄なのか?」

   

自分たちが普段、自明のものとして使っている言葉。

主体。客体。

そして、無意識のうちに抱いているイメージ。

 

これらを捉えなおす、というのがこの分科会のテーマであった中で、参加者のひとりがぶつけたこの疑問はとても大きな意味があったと思う。

 

基地、歴史、環境、格差・・・

 

‘私たち’は、沖縄に対して何か特別な-あるいは比較的明らかな-印象を持っている。


沖縄と聞いて思い浮かべるもの-。

果たして、それらは沖縄‘そのもの’なのか?それとも特徴?

例えば、ここで鳥取県について語ることと、沖縄を語ることの何が違う?

 

‘私たち’が、沖縄に対して無意識に抱いているだろう他者性。

 

事前にお膳立てされたディスカッションという状態の中でも、

自分のイメージの中にある他者性について全員が意識して、議論がその方向に向かったのはこの疑問の後だったように記憶している。

 


今年の年末は、モギコクの全日本大会の前にSympoというディスカッションイベントにも参加してきました。

 

このSympoでの経験について、正月中どうこれらをまとめていいものかとずっと考えてきたのですが、どうにもこうにも適当なまとめが思いつかなかった。

 

何でだろうと考えてみると、どうもこの分科会の性質上、ディスカッションの末に出てきた結論を結論として言葉に表すと、それは当たり前のものにしかならないんです。


「他者の立場にたってみる」というのはこれだけを言ってしまえば当然のことですし、それを改めて意識してみる-といったところで、それではどうにも弱い。

 

歴史認識の多義性や、愛国心の問い直し・・・。

違ってはいないのに、ぬぐえない違和感。

 

アレッ、ギロンシテキタノハコンナコトダッケ?


自分の中でもこの議題を消化しきれていないという思いも手伝い、

遅々としてキーボードが進まなかったのですが、テスト前に記憶が風化してしまいそうだったのでひとまず書き進めてみました。

 

結局、この分科会でのことを‘経験’としてちゃんと自分のために記録できて、なおかつ人に上手く伝えるにはどうすればいいのかを考えたとき、

 

この分科会での議論の過程や分科会で説明用につくった結論を示すことよりも、この議論のもととなった問いかけをそのまま書きとめておくことの方が、現代社会分科会の性質により資するのではないかと。


「沖縄は他者なのか?」


「愛国心て何?避けられないもの?」


「マジョリティとマイノリティの境界線は?」


「歴史を認識する、継承する、とは?」


「‘私たち’の範疇。語る主体は?」



「何か違和感がある。・・・何かよくわからなけれど」


議場において、‘沖縄’を代表させられた沖縄出身者2人の思い悩みと、

それを皆で何とか引き出そうとした深夜のディスカッションを自分は決して忘れないだろうし、

 

 

何よりも、‘全員’がこの議題に対して‘当事者’であることをまぬがれない、という点において、この議論はとても特別なものだった。



2泊3日という限られた時間、2度とはないだろう出会いの中で、参加者それぞれが互いの背景や思考を出来うる限り理解しよう、吸収しようとコミュニケーションを尽くせたのは、参加者の意識の高さに加えて、分科会テーマの性質によるところが大きかったと思う。



これまでの大学生活で多くのMTG、議論を経てきたはずなのに、

ここではじめてディスカッションの本質を見た気がした。


【各論】に続く

 

サークルの全日本大会が終わりました。

今年は正直かなりへたれなデリでしたね。リサーチ不足もいいとこです。

忘れないうちに、【総論】【各論】【まとめ】と分けてレビューしてみます。



【総論】
個人的なモギコク観に照らせば、
多数派工作をはじめとした会議行動がいかにできたかよりも、
議題に関して、どれだけその担当国の立場を生かしてアカデミックな議論ができるか?という点がすべてです。

今回、自分は年末に使える時間を他の活動(Agees、Sympo29、学生生協)にかけすぎて、
議題そのものについてのリサーチをあまりに怠りました。
議題そのものの議論に価値をおいているにも関わらずこんな状態でしたので、
長期ホテル生活の疲れも手伝って、かなりぐだぐだしていたのも事実です。

まあ結局は自己管理がなってないという結論にいたるわけですが、
特に、「他の参加者を失望させない」という意味において、相当ダメな旧メンでありました。
プラス材料を探すとすれば、他の参加者との交流という点で個人的には楽しめたのと、
前日に徹夜して勉強した石油市場に関する知識は自分の糧になったかと思います。

【各論】
○会議行動について○
当初、我が国は東アジアでまとまって動くというシナリオを考えていました。
しかし、その作戦の出どころである「アジア市場の特殊性」に関して議場にでていた論点・議論では
触れられそうになかったこと、また、こちらから主張するすべも見つからなかったので、
難民よろしくOECDグループに身をよせることとなりました。

今考えれば、しゅっぱなから日本と組んでコーカサスグループをそそのかすというKYな会議行動もありえたわけですが、ややおかしい動きなので思いついていてもやらなかったでしょう。現実的には、中印に接近する手もあったかもしれません。

基本的にはOECDグループの大枠の中ではずれず、微妙に他に関わりつつ、
大過なく、可もなく不可もない国益に外れない行動だったとは思われますが、
最終的な投票行動については賛否両論というか、破綻しておりました。
ひとつ反省として言えるのは、ひとりのデリとして、最後まで尽力するという姿勢が足りなかったということでしょう。

○会議における「プレゼンス」について○
正直、自国の石油事情についてはそれなりにリサーチしていたのですが、
その中で、今会議において「自国が設定国である理由」を自分は見つけられませんでした。
つまり、他の設定国にはない、自国にしか出来ない主張・役割について確信のもてる見解を出せなかったのです。
「アジア市場の特殊性」とか「コーカサス地域外交での出遅れ」とかいろいろ諸要素はそろっていましたが、
最終的には、せいぜいアメリカ同盟国のなかでは中間国的役割かなってくらいしかわからんかった。

会議における「プレゼンス」とは何でしょうか?
あるグループの中で、もしくは会議全体のマネジメントに関わり「デリとして」主導的な役割を担おうとすること。
これは、国益という観点からみてやるべきかもしれません。ただ、ひとりのデリとして、何が得られるのかは個人的には疑問です。

べスデリの選考基準などを鑑みると明らかですが、やはり会議におけるプレゼンスというのは、
「その会議の設定国として、その意義を最大限に引き出せるかどうか」に大きく依拠しています。
それを実現することは、自国の主張をただ把握して政策立案することとは全く違うことです。

会議全体からみた自国の存在意義―
ディレクの意図―
知識よりも、経験よりも何よりも、そこにもっと深くつっこめなかったのが今回の最大の敗因だと思います。

○BG至上主義について○
まあ正直、札幌が小規模でかつ常にオープンアジェンダみたいな状態wだからかもしれませんが、
普段、議題に関してしらべるときに、BGはあまり使いません。もちろん読むけど。
要するに、BG以外のリサーチソースに大きく依拠する会議というのをずっとやってきました。

今回、BGをもとにDRを作っている老メンの方をみて、勉強になったとともに、
それでいいのかという考えも多少頭をよぎりました。

これに関しては、限りなく「純ディスカッション」に近いものを求めるか、「モギコク」を求めるのかという
議論だと個人的には思っていますが、無駄に長くなりそうなので、また機会があれば詳しく書きたいと思います。

【まとめ】
まとめというか、今回感じたことは、自分は大使になりきれていないのではないか、ということです。
正直なところ、自分は大使をやっているよりもディレクとして会議を設定したり模擬国連という団体を
形作っていく方が面白いですし、事実そちらのほうに注力してきたつもりです。
また、デリとしてもモギコクのもつゲーム性よりも純ディスカッション的な要素をより好みます。

その中で、「モギする」という行為に対する自分なりの答えを出していたはずなのですが、
今回残念ながらそれを納得いくかたちで実証することはできませんでした。

それを踏まえてこれからのモギコク活動について考えてみると、
もし、これからも活動を続けていくと仮定するならば(もう半分引退しますが)、
今後は、自分の理想のデリゲイツ象を追及していくという姿勢になるかと思います。

あとは、モギコクの一員というよりは自分個人として、モギコクに対して出来ることをやっていく、
という感じでしょう。

来期は他団体の役員も務めることですし、進路関係の勉強もそろそろあやしいので、
中枢メンバーとしての役割―特に団体運営に関すること―からは一切手を引いていくつもりです。
次期世代の邪魔になってもなんですしね。

前述しましたが、なんらかのフォローなり口出しなんかをするとすれば、それはあくまで個人的にです。
ですから、札幌モギコクのあり方とか、モギコッカーとしてどうするとかというよりも、
個人的にもっているスキル、知識を、メンバーが必要とする限り持ちよることができたらなと。そう思っています。

なんだか中途半端なまとめですが、最後に一言―「楽しかった」