こんにちは、芝桜です。
タイから帰ってきて、時差ボケです。
タイに到着した時は、やはり緊張しているので自然に現地の時間に合わせられるのですが、日本に帰ってからが大変です。朝目覚ましをかけていなかったのも原因でしょうが、やはり、年齢によるところが大きいと思います。夜中の3時過ぎまで寝れないのですから困ったものです。明日は目覚ましを3つぐらいかけて、何としても7時に起きようと思います。
さて、昨年8月、日本ギターコンクールを見に行ってきました。
幅広いギター愛好家やプロ志望の人達が参加できるよう、色んな部門が用意されています。
その中で、現役のプロもエントリーするというオヌール部門(名誉部門)。
その2次予選演奏を聞いていて大きな疑問を感じました。
それは、オヌール部門の出場者は一体誰に対し何のために演奏しているのかと言う疑問です。
大きく分けて、2つの考え方が有ると思います。
1、審査員に対して演奏する。
この場合、入場料を払っている聴衆は音楽を聴いていると言うより審査(風景)を見ていることになります。優れた演奏家が後進を指導するマスタークラスの聴講生のような感じです。
2、聴衆(観客)に対して演奏する。
この場合、聴衆は音楽を聞き、審査員は(審査員を含む)聴衆に対し演奏する演奏者を評価することになります。
私は2で無ければならないと思いますし、審査員も演奏者が如何に聴衆に訴えかけているかを審査していると思うのですが。
2次予選の課題曲はフランシスコ、タレガのアラールの華麗なる練習曲でした。
しかしほとんどの出場者が暗い表情で演奏するのです。例えると自動車教習所で免許を取るための試験を嫌々受けているような感じで、私には『この曲なんとか弾けるでしょ。』というメッセージしか感じ取ることができませんでした。言い換えれば機械的に弾いている、或いは嫌々弾いているという感じでした。笑顔でとまでは言いませんが、演奏態度も含め自分の音楽を聴衆に訴えかける演奏をしていないと感じたのです。
そんな中、お一人だけステージ衣装に身を包み、明るく振舞い自分の世界を作ろうとしていた出場者がいました。
女性の方で宇田 奈津美さんという方です。審査結果は2位でしたが演奏に対する姿勢から考えても入賞して当然だと思います。
今、念のためネットで調べると、この方日本ギターコンクールの小・中・高校生の各部門で優勝し、オヌール部門でも2010年に3位に入賞、そしてすでにプロとして活動してるみたいです。
私はつまらないので、本選は10分程度聞いて退席しました。小・中・高校生の部門や中級部門等の方が技術的には未熟でも訴えようとする気持ちが伝わってきて楽しいと思います。
聴衆とコミュニケーションを図ってこそ演奏だと思うのですが。単に審査を受けるためだけの演奏には、ほとんど音楽としての価値が無いと思うのです。
ところで過去10年間のオヌール部門の審査結果をパンフレットで見ますと、該当者なし(優勝者なし)が4回も有るのです。
日本のギター界が他国と比較してそんなにレベルが低いとも思いませんし、出場者の技術的なレベルが低いとも思えません。
また、過去の入賞者から推認して日本ギターコンクールの審査のレベルが非常に高い(厳しい)とも思えません。
なのに、なぜ10年間で4回も該当者なし ・・・・・ ?
なにか、ボタンの掛け違いのようなことがあるのではと思います。そして、その責任はギター界の発展を目指している主催者側にもあると思います。
この記事を書いている間に、ある言葉が頭を過ぎりました。童謡『カナリア』の1節です。
最後にこの歌詞をコピペしてこの記事を終わりたいと思います。
ああ、今日も夜中の3時まで起きてしまった ・・・・・・・・ 。
・・・・ 童謡「カナリア」 ・・・・
歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ
歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう
歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す
(作詞 西條 八十)
(本日もご訪問ありがとうございました。)