立川読書倶楽部WEB会報 -2ページ目

立川読書倶楽部WEB会報

隔月で都内某所にてひっそり営まれる読書会。
毎回、一冊の外国文学が課題図書として選出され、
徹底的に語らうのが我々の流儀(スタイル)。

全員が「誰か解説して!」という気持ちで参加した今回の読書会は、様々な方向に話題が拡散。やりとりの一部を簡単にメモしたものを記録として。

 

 

ひとりがひとりじゃない。お母さんもいっぱいいるし、おばさんもいっぱいいる。

ドグラマグラみたいな感じ? よくわからない、のりきれないまま途中で挫折した。

 

セレスティーノ=ぼくという理解であっている……?

(一同沈黙)

いや、いとこなのでは?

 

ページのあいだに唐突に挟み込まれるこの引用は何?

さいしょは落丁かと思ってしまった。

これはセレスティーノが書きつけた詩だと自分を納得させて読んだ。

セレスティーノは詩を書き続けているけれど、この作品全体にはあまり「詩」というか詩情?を感じなかった。

私はぜんぶが詩だと思って読むことにした。イメージの断片が連なっていくのかなと。

 

マジックリアリズムのにおいはまったくしなかった。

さいしょに読みたいと思ったのはマジックリアリズムではなく、物語をつむぐ前のアレナスが経験したつらさを織り込んでできたこの物語(のはず)だったのだけれど。

アレナスが心配になる。

でもかなり気張って書いているよね?

よくがんばった、と言ってあげたい(笑)

 

ぼくは10歳くらいの設定? 子どもから見たら社会や世界はこういう感じなのかも。でもそういう描き方をしたいのであれば、この作品はちょっと長すぎるように思う。

文明も文化も何もない生活はこういうことなのかもしれない。

上の世代の話を聞いていると、カストロが英雄だと感じられていた時代があったのだろうと思う。そういう時代に書かれた本……にしては何を意図しているのかまったくわからない。

むしろ時代的な背景を徹底的に排除して書いたとしか思えない。

 

詩を書くことがどうして同性愛とつながるの?

アジア圏は詩の文化がまったく違う、台湾や韓国では詩が書店で大きく売られているし、地位が高い。チベットなどもそう。カンボジアの粛清のときにも詩人が弾圧された。流通もしやすい、パッと書ける、闘いの武器となる。

 

 

以下、日本国内での詩についてひとしきり盛り上がる。

以下、中途半端にみんなの発言をメモにとっている。話題はあちこちに広がり、充実した会となった。

 

MK:いちばんつらかったのは血を畑にやるところ、これはフィクション!? 目標を高く高くつり上げていく様子を読みながら、戦時中の日本も同じようなことがあったことを連想した。独裁というか上が強すぎて逆らえないというか、それが正しくなってしまっている。これは本当にあったことなのかと信じられなくなってしまった。こどもは最後に磔になるが、死んでも構わないと言い続けていたこどもは最後に何を言いたかったのか。

RN:血を畑に注ぐのはフィクションだと思うが、実際にやっていてもおかしくないと感じさせるような物語ではある。こどもは憧れをもって生きるもの、知識人への憧れがあった。欲しいものが得られないなら死んだ方がいい、というもの。それが最後に磔になるというのはなんだかわかるような気がする。本当にえげつないお上や悪代官は出てこない。

CT:ディストピア的だけど、ユートピア化していく。人間の普遍的な姿にも感じられる

RN:最後の風景は山水画みたい、ごはんを炊く煙とか遊ぶ子供とか。

 

ドスJ:原稿をこの本で書こうという下心があって読み始めた。冒頭から聖書のことば、中国の歴史とキリスト教が重ねられてくる。これが下敷きになって、ここから離陸して物語がはじまるのかと思っていたら、ぜんぜん離陸しない!? このテンションでずっと行くのか!? と疲れてしまった。

血やカニバリズムが出てくる、まん中あたりから完全にこの世界にもっていかれた。初めて読んだ作家、「四書五経」すら知らないぼく、なのにキリスト教で最後は磔刑にまでいく。わからない。聖書の文体は広く読まれるための文体。三浦綾子は敬虔なクリスチャンだが、「聖書のことばで書きたい」と言っていた、『四書』にもそれがあるのか。読み進めながら思っていたのは、「いつ帯にのっている四番目の書が出てくるのか!」ということ(笑)

NewYorkerの議論にもあったが、閻連科の作品は中国のことを書いているのか? イギリスは世界でいちばん監視カメラが多いことに、アメリカは9.11後のことに、日本は過去の戦時中のことに、それぞれ連想する。中国のことを書いているのに、人類全体のものに敷衍していく。

中国にいて、小説を出し、国内では出版されず、大学の先生で……どうして小説を書けているのだろう? 日本のメディアにのるような「習近平の国」にいたら投獄されてもおかしくないと思うのに。この人は何をモチベーションに、誰を想定読者にして書いているのか? 届け先は私たち、ということでいいのか? 

この小説を誰に薦めるかと問われたら、武田泰淳や大岡昇平が好きな人、カミュが好きな人、と答える。ブレイク「天国と地獄の結婚」=ある日天使がやってきて人間にものごとを教えようとしたときに、人間が天使に人間のことを教える。涜神的になる。

物語の山場がない、読んだことのない形。深読みしようと思えばいくらでもできそう。四大福音書?

RN:どうして中国で活動できているのかということについては、話はあまり聞こえてこない。余華や莫言などそういう作家は他にもいる。うまくやっている、あまり国際的に人気のある作家を表立って排除するようなことはしない情勢なのかも。

この本は台湾で出版され、台湾版や海賊版が中国国内でも読まれているらしい。ここまでの「純文学」は、そもそも読者は多くないのではないか。中国語のウィキペディアは情報がかなり少ない。不条理文学、収容所文学的な平坦さではあるかも?

ドスJ:「自由への道」はサルトル?

RN:そこまで意識しているかはわからない。

ドスJ:閻連科は大江の作品を読んでいる。

 

NS:表紙がめちゃくちゃかっこいい!

RN:解体新書からとってきた。うしろはドイツの森、合成してつくった。

NS:『愉楽』を読んで2冊目、読みにくかった、読むのが大変だった。もう一回チャレンジしてみようかなと。途中まではこれはやっぱりつらいなと思いながら読んでいたが、後半、ものすごい圧で来たのですごいものを読んだなという気がしている。飢えがつづく、何か食べたいという描写が長くつづく。飢餓のところは息が詰まるようだった。事実に基づいて書かれているのだと思うと、胸にくるところがある。

タイトル『四書』が儒教の4冊だとはじめて知ったが、内容的には儒教よりもキリスト教の聖書の方が強い。その差は何だろう、皮肉なのか? 登場人物がくっきり描かれている。毛沢東のこども、でもある。こどものもつ無垢さ、ことばで言うことを聞かせていくという暴力性が残酷さをさらに強調する。学者は何をしていたのか? 聖書のなかにモチーフになるようなキャラクターがいるの? こどもが燃やさずにいた本が残っていたシーン、みんなが書物への憧憬を感じているシーンで、すごくよかった。

CT:なぜ学者が残ることが「希望」?

RN:書名は「四書五経」で間違いない、意外性と、ある種古典をつくるという意思を持って書かれたものかも。大躍進と多くの犠牲者が出たことはタブーのひとつ。正面切って書くと共産党批判になるので、これは最初から国内で出せないだろうということで、もとは私家版で友だちが読んでいたというエピソードがあったはず。

作家が裏切り者なのは明らかだけれど、学者も案外いろいろやっている。学者が残るのは希望、というのは、何だろう?

MK:降誕のときにこどもをおろす人がいる、復活のとき?そういう意味で希望?

RN:最後、仏教の本だけを置いていけと学者は言っている。

NS:鳥のカササギは? 西洋文学でカササギはメタファーになっている?

ドスJ:ぼくは村上春樹を思い出した。『ねじまきどり』の第一章はカササギで、春樹の作品内の鳥は大日本帝国的なイメージ。と思った。いろいろなものをもってくるのがうまい、それが機能している。

TY:閻連科『愉楽』を最初の数ページで脱落してしまっていたから無理かもと思っていたが、おもしろく読めた。中国の田舎で、ひとりを残してみんなで棄村をする……『年月日』かな、それは詳しくおぼえていないけれどすごく暗かった。ひとり残った人は、みんながきっと帰ってくるという希望をもっていたのが印象的だったのを、『四書』を読みながら急に思い出した。

シチュエーションがわからないまま、説明もなく最後までいく。この区だけ指導者がこどもで、頭をなでられているシュールさ。上に立っている人が無垢だったりばかだったりすると大変だよなと思う。囚人たちはこどもに対して威圧感をおぼえているわけでもなく、指導者に対する恐怖はあまり感じられない。そういう設定のうまさ、その妙な感じが最後まで解説されないまま終わる。自分に酔った感じの死に方をしているし、何でこどもが指導者になっているかなどもわからない。

訳も読みやすかった、方言らしさがなかった。

RN:閻連科は河南省出身だから谷川訳はそれを活かしているのかも。『四書』は舞台が河南省ではなさそうだし、普通の訳文になっている。そのせいかも。

ドスJ:Mythorealism? 神話的リアリズム。

RN:神実主義、というのを閻連科が言っている。

ドスJ:風刺小説であり、政治小説であり、神話であり……

NS:自分の肉を食べさせる、というのは聖書に何かあるのかな?

ドスJ:アンパンマンしかいないでしょう! ワンピースのサンジとか(笑)

 

MI:おもしろく読んだ。1ページ目を読んだ感じでは、課題図書でなかったら買えなかったかも。

「映像の世紀」が好きで、文革の映像がけっこうあった。インテリや西欧主義の人が理不尽に非難される時代があったことを映像でおぼえている。本当にこういうことがあったのか。文革の映像に出てくる兵たちはみなこどものような若者たち、りんごみたいなほっぺの。無垢に信じてしまっているだけのこどもたち。

だんだんこどもがいいやつなのかも!?と思い始めてしまった。素直に話を聞くこともあるし、車をうしろから押したりもするし。こどもは知識に近づいたら自分も良きものになると思い始めたのかなと想像したのではないか。聖母マリアの踏み絵のシーンや、本がきれいに保管されていた場面など。ただ、こどもが良きものになってしまうのは、ディストピア小説としては物足りないとも感じた。知識を得ること=大人になること、成長すること、として描かれている。2011年に書かれたものがいま翻訳されて、いいタイミングだったと思う。全体主義、反知性主義がいま高まっていると思う。中国の小説家はどうしても文革を書いてしまうものなのか。

RN: 大躍進、文革、天安門など、どうしても大きな悲劇として語られる傾向がある。相当数の餓死者が出ているし、それについて語ることも許されてこなかったので、それにこだわるのはひとつ当然かなと思う。もうひとつは、今の共産党は批判できないので、過去の共産党を批判するというのはあるのかも。

 

MI:『黒い豚の毛、白い豚の毛: 自選短篇集』のあとがきに、中国の文学雑誌「作家」に日本の若手作家の短篇小説特集を組んでいたとある。閻連科も中村文則さんを知っているのでは。

RN:日中の作家の交流プログラムがあって、中村さんもそれで閻連科とつながりがあると聞いた。日中の若手作家の文化交流がずっとあった。前は大江が中国に行ったりもしていた。だからこそ尖閣諸島問題のときに村上春樹が発したことに対してすぐに閻連科が応答しているのかも。

 

RN:収容所文学について。関係は逆転する、お上にばれないようにしながら自分のなかの喜びができて、でも結局は順応していく。

ソルジェニーツィンは悪いやつで、正教・プーチンを礼賛してきた人でもある。抑圧から人は得るものがあるのか?という問いに対して、ソルジェニーツィンは、苦しみから崇高なものが生まれるとした。一方、シャラーモフは、収容所での経験から得られるものは何もなく、収容所のなかでしか通用しないものだとした。ぼくは後者に賛同する。『四書』の収容所で得られたものは、何もなく、そこから出てしまえば忘れ去られる、後世に伝えられない。閻連科はエピグラフでも「忘却に抗う」としているが、まさにその記憶を書こうとしたのではないか。

 

MI:最後のこどもの磔刑は、小説のオチとしてはいいけれど、あまりに小説的すぎる?

RN:インパクトのあるエンディングとしてもってきただけかも。

ドスJ:ニルヴァーナのMVにまったく意味のないキリストの磔の映像を出すが、まったく意味がないかもしれない。読んだことがない。

 

ドスJがその後まとめた紹介はこちら

https://popeyemagazine.jp/post-155425/