人間が抱える大きな問題の原因はエゴに縛られてしまっているからでは無いかという視点から考察を広げる。道徳や倫理や宗教は人間が生み出した綺麗事の総括であり、エゴイズムと定義される。残念ながら人間は己を過大評価している。人間は肉体的にホモ・サピエンス以降ほとんど進化しておらず、圧倒的スピードの技術・文明的進化を己の進化だと錯覚しているのだ。

エゴイズムの対義語として生物的という言葉を使う。生物的とは野生動物同様に今日を生きれるかどうかも分からないようなその日暮らしの生活を己の生存本能だけで生き抜く力である。勿論、エゴを捨てることを忘れてしまっている人間は生物になれていない。

人間は突然ジャングルや砂漠に飛ばされた時に生き抜く事が出来るか?太古の生物なら適応出来るだろうが人間にはハードルが高いだろう、サバイバルなんて言葉は太古の生物にとっては日常生活なのだ。人間はエゴに縛られるが故、単体では何も出来ない脆弱な種にむしろ退化しているのだ。また、すぐに文明の利器に頼ろうとする考えが人間の生物化から乖離する手助けになってしまっている。この点からも分かる通り人間は進化していないのだ。進化したのは文明と技術。

人間だけが共食いしないこと。一般・常識を強制されること。安楽死が禁止されること。一夫多妻制やその逆、男女が複数の異性と関係を持つ事などの性的な物事を穢らわしいとする考え。etc.これらは一部に過ぎないが全てエゴが作り出した人間を脆弱にする項目であり、これこそ人間が生物へと進化する為の階段を永遠に登れない原因だろう。

本気で!環境問題や少子高齢化問題を解決したいのならば今すぐにエゴを唾棄すべきだろう。環境問題に関しては本来の地球の生態系を一方的に破壊してきた人間が、その生態系の一部となり、生物ピラミッドを新たに形成し段階的な問題解決に繋がるのだ。(具体的には)人間は自ら一方的な捕食者から捕食者兼被食者になる必要がある。人間は現在、生物ピラミッドの外にいる部外者で地球と生物という自然への侵略者に過ぎない。エゴを捨てずに生物の仲間入りしようとする行為と思考は非常におこがましい事だろう。

少子高齢化問題に対しては人間の生存本能に野生を想起させることで人類の種としての子孫を残す意識向上と生産性の無い存在を排斥するような考えに繋がり、(具体的には)オスは複数のメスと関係を持ち、多くの子孫を残すことでより可能性高く種を存続させる。メスは優秀で強いオスを見つけ自分も守ってもらうことで己の肉体的特徴である子供を産む事ができる利点と筋肉質でない肉体の欠点を克服できる。また、肉体的精神的に使えなくなった高齢者はさっさと殺処分して、その後の墓場も別に供養しなくたって祟られるわけじゃあるまいし(では現に他の野生生物はいちいち供養されてるか?)人骨は骨粉にして農肥にして地球本来の自然を増やせば良いし、墓場のスペースもそのまま田んぼにしたらどれほど環境が良くなると思う?供養するも何も宗教だろう、宗教はエゴと言っただろう?そんなことしてるのは今頃人間くらいだ。神や仏は人間の創り出した味方に過ぎない。つまるところ残念だが愛も何もエゴの延長線上に過ぎない、お互いが一人ずつの異性だけど関係を持ち続けるのには本能的に無理がある。それくらいなら潔く世間的不埒な場所で不埒なコトをした方がよっぽど生物的だ。

社会もその考えに沿うことで種を繋ぐ重要性を保持しつつ無駄の少ない洗練された人間社会になり、いずれは生物社会になるだろう。
森羅万象への尊敬と謙譲は人間が一番初めに行わなければならない事。多分、人間が一番醜く自己中心的な存在だ。人間は本来文明も技術も持つべきでは無い種だったと残念に感じる。人間の人間のための学問、道徳や倫理や宗教学はエゴ学問であり今すぐに勉強を辞めるべきだ。本能に理性を押し付けるな、もっと本能的になろう。

エゴに操られる人生はもうおしまいだ!