前編では館林城下町にあった日光脇往還沿いの本陣跡の歴史を紹介しました。

少し振り返ってみます。

 

嘉永元年(1848)の城下町図で、札場である大辻を中心とした館林宿中央部です。赤丸で示したところに本陣がありました。本陣を勤めたのは大島家です。

明治になり、大島家からこの場所を借りて、邑楽郡役所が出来ました。(明治11年~43年)

邑楽郡役所が大名小路に移った後に、この土地は所有主の大島家に戻り、やがて堺屋呉服店が営業を始めます。(地図は昭和9年(1934)のもの。)

お客で賑わう堺屋呉服店です。(昭和32年(1957))

他店と共同でビルになりました。(写真は昭和39年(1964))

こちらは昭和55年(1980)の住宅地図です。堺屋が入っているビルには、他に奥沢電機、マミヤ金物、三鈴の名前が見えます。この地図の範囲では、コグレ靴店、天松堂(時計屋)、石山精肉店が今も営業を続けています。また、タデヌマ洋品店の建物はかろうじて残っていますが、道路拡張の影響でどうなるのか心配です。

堺屋のビルも道路拡張に関連して壊され、姿を消しています。これは昭和46年(1971)のビルの姿です。ビルの先の少し背の高い建物から先は別のビルです。(上の地図に書かれた花月堂とアヤ文化服装学院のビルです。)既に堺屋の店は姿を消していますが、手前に「コグレ」と「スズキ」という履物屋が軒を並べていました。

工事中の写真は撮れなかったのですが、2020年12月にビルが消えた直後の跡地の姿です。上の写真にも写っている「靴の店 スズキ」はこの後になくなります。(左のビルはアヤ文化服装学院が入っていた建物で、2021年2月には壊されました。)

道路に面した部分しか知りませんでしたが、奥の方まで広い敷地です。

 

では、これから現在の姿です。大辻の交差点で、手前が谷越町で奥に向かって足利町の通りになります。右が連雀町で左が竪町。(全て旧町名です。足利町はほぼ本町一丁目です。)

交差点脇のコグレ靴屋は健在です。その先の黒い自動車が走っている辺りの右側が堺屋の後です。

そのコグレ靴店の前から道の反対側を見ると、直ぐ前に天松堂があり、少し先にある高い建物がタデヌマ洋品店でした。更にその先にある白い建物が石山精肉店です。(昭和55年の住宅地図を参考にしてください。)

天松堂の店頭には時計や宝石が飾られていました。

タデヌマ洋品店だった建物で、おしゃれな造りです。

石山精肉店です。隣りのビルの建っている辺りまでが道路の拡張範囲と思われます。精肉店は現在も営業中で、いつもお客さんが来ていますのでやはり今後が心配です。

では、堺屋跡地に戻ります。

昭和55年の住宅地図に書かれているように天松堂のから道を挟んだ所が堺屋の跡です。つまり、邑楽郡役所の跡であり、館林宿の本陣の跡ということになります。跡地には雑草が生えているので、幸いにもその範囲が良くわかります。

江戸時代の城下町図に書かれた敷地と同じで、かなり奥まで続いた広い土地です。

これが道路が拡張される幅になります。道路を四車線にするのではなく、この部分が歩道になるのでしょう。電柱は地中化されます。最近は町中を歩く人は余り見かけませんが、私のようにあちこちウロウロする人間には安心です。

跡地に足を踏み入れようかどうか迷っていたら、ここの雑草を引き抜いていた人が「いいよ」と言ってくれたので、入らせていただきました。(持ち主の方ではないので、結局勝手に入ったことになります。)

入ってみると、更に広さを感じます。振り返ると、車が走っているのが旧日光脇往還です。往還からおおよそ30メートルくらいの所が本陣の上ノ間なので、この写真の中程がその場所に該当します。御三家を始め、日光山門主や公家・大名などが日光脇往還を通り、幕末には老中阿部正弘(日米和親条約締結など)が本陣で休憩を取りました。休憩には上ノ間を使用したものと思われます。

今度は跡地の一番奥からの写真です。天松堂の建物がはるか彼方に感じられます。

江戸時代の城下町図では本陣の敷地は途中から北の方に折れ曲がっていました。現在の跡地も北(写真では右)に続き、更に南の方にも続いた土地があります。(左側の青い塀の切れた所から左(南)方向へ)

まず、北の方に向かう跡地の一部です。並木町の通りまで繋がっています。

同じ所を並木町の通りから見たものです。足利町の旧日光脇往還は北に向かって下っていますので、並木町の通りと比べると本陣跡の土地はかなり高くなっています。

そういえば、この場所は堺屋のあったビルの裏手の駐車場からの、車の出入り口だっのを思い出しました。

今度は南側の跡地の一部です。こちらは連雀町の通りまで続いています。こちらも出入口でした。

連雀町の通りから同じ所を写しました。右の建物は旧大島質店で、奥に立派な土蔵が残されています。

 

こうして歩いてみると、本陣の敷地はそのまま残り、更に少し拡張されて「十」の字のような形に変わっていました。

これからこの土地がどのように再利用されるのか分かりませんが、分譲されることなく本陣跡の形がそのまま残ればいいなと無責任にも考えてしまいます。

 

こちらは【前編】でも紹介した昭和34年の足利町の様子です。道幅も狭く、今よりは雑然としています。同時に人々の生きる活気も感じます。

旧日光脇往還も電柱が地中化されて歩道も広くなりますので、この活気が戻ればいいですね。その時に広大な本陣跡がどのように姿を変えていくのかを見守っていきたいと思います。

 

写真撮影:2024年8月18日・20日、 2020年12月3日

参考文献:

  館林市史 特別編 第2巻 絵図と地図に見る館林(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 特別編 第6巻 館林の町並みと建造物(館林市史編さん委員会編)

  館林市史 通史編3 館林の近代・現代(館林市史編さん委員会編)

  館林市史別巻 写真で見る館林(館林市史編さん委員会編)

  群馬県営業便覧(下巻)〔復刻版〕(編集者代表 相葉伸 みやま文庫)