久生十蘭は、一九四三年九月四日、南洋の地で、岡本かの子の『河明り』を読んでいる。アンボン島にて、二分隊長から喜んで借り受けたのがそれで、日記にはこう記されている。
九月四日(土)晴れ ハロン(アンボン島)
……○七○○、大艇発、二分隊長に岡本かの子の『河明り』を借りる。久振りでじっくり読める本に
行き当り心愉し。
ところが、読み進むごとに、不満を露わにしてゆく。日記の続きはこうだ。
……昼食后はすぐ『河明り』を読み始む。早熟な小供がへんに競って書いているようなところがありう
るさし。努力のあと並々ならず。
九月五日(日)晴れ ハロン―トレホ―ハロン
……もう睡られそうもないので電灯をつけて「河明り」を読む。六時、読了。物おじせぬ幼稚なロマン
チシズムに呆然とすること暫時。主人公の娘は概ね白痴の如し。力足らずに形象だけこね廻したと
いうべきところ。男のほうは海に憑かれたとはそもそもなんのことやらわからず、シングとは似て非な
るものなり。観念の細工物はいい加減にせねば人を立腹させるに足る。男、すぐ結婚を承諾する経
過浅薄にして不明瞭。作者なるものひどく買って出ているようなるがただウロウロするばかりなり。
「河明り」を読んでいて、気になったのは、観念的な表現が多いところである。個人的な意見を言わせてもらえば、観念的(くどい)表現そのものが果たして成功しているのかは謎である。
たとえば……
……たゞ、あまりに違った興味のある世界に唐突に移された生物の、あらゆる感覚の蓋を開いて、
新奇な空気を吸収する、その眠たいまでに精神が表皮化して仕舞う忘我の心持ちに自分を托した。
すべてが噎るようである。また漲るようである。こゝで蒼穹は高い空間ではなく、色彩と密度と重量を
もって、すぐ皮膚に圧触して来る濃い液体である。叢林は大地を肉体として、そこから迸出する鮮血
である。くれない極まって緑礬の輝きを閃かしている。物の表は永劫の真昼に白み亘り、物陰は常
闇世界の烏羽玉いろを鏤めている。土は陽炎を立たさぬまでに熟燃している。空気は焙り、光線は
刺す―
上記のような表現はこの作品に散見され、何となくキマっているようではある、が、一方で、どこか表面的で、軽さを感じてしまう登場人物らと対比させた場合、その重苦しい描写も実はほとんど真実味を伴わないのではないかという、胡散臭さ、十蘭の言うところの、「観念の細工物」的な感覚を受け取ってしまうのである。
さらに日記には続きがある。
「趣味」というものの過剰羅列は珍なり。和洋折衷の家庭料理を下手にやったものにしてどうにもな
らぬなり。実力と自信の混同は真に恐るべきものある。感受性というもそれは過敏というものなる如
し。
おそらく、これは作者岡本かの子に宛てた言葉だろう。「観念の細工物はいい加減にせねば人を立腹させるに足る」という先ほどの文句を踏まえれば、「過剰羅列」の意味はわかる。では「趣味」とは何か。思うに、これはプロという意味の「仕事」に対して使われたのではないか。すると「料理」とは、作家が読者に差し出す作品のことであり、「和洋折衷の家庭料理」(ましてや「下手にやってる」)とは、”プロの料理人のとしてお客(読者)に差し出すような料理”には到底及ばないものである。そして、わざわざ、「和洋折衷」と手の込んだ(気取った?)料理を作るところに、「実力と自信の混同」を読んでいるのではあるまいか…。いずれにせよ、ここでは痛烈に「河明り」を批判しているように思えてならない。
ところで、文壇での「河明り」の位置づけはどうのようなものだろう。石川淳や天沢退二郎は、「河明り」を"すぐれた作品”だと評価する。たとえば、石川淳は次のように述べている。
「河明り」はあっぱれ一本立の散文の秀抜なるものである。まあ傑作を以て許すべきに近いだろう。
既に「河明り」は傑作だということにきめてしまったのだから、おまけにそれが類まれなる女人の仕事
なのだから、わたしは批評などという貧乏くさい、眼のかすむような賃仕事の真似はしてはいられな
い。何か書くとすれば、のっけから、めちゃくちゃに褒め上げてしまうほかはない。すなわち、もう何も
書かなくてもよいということである。(石川淳)
石川にこんなことを書かれたら、「批評家たちはもう何も書けなくなってしまった」とは天沢の言葉で、それほど(批評を書く意味がないほど)、「河明り」が傑作であることは、疑いないということになっている。