8月31日(月)マーシー53歳の誕生日

090918_birth01.jpg その日は昼まで何と台風上陸とかで東京は荒れ模様。
北海道から飛行機でやってきたファンは、東京の天候によっては着陸できず引き返すこともありますと言われて飛行機に乗ったとか。でも夕方には雨も収まり、無事にパーティーが始まりました。
何と北海道から数組のファンが来ていたのですが、昔、ファンクラブでなじみだった人同士、会場で久し振りに顔を合わせて、何となく同窓会の雰囲気に。
出所から1年余経て、だいぶ昔の感じが戻りつつあるマーシーは、秘蔵ビデオをたくさん持参したり、衣装などもその日のために用意。
誕生ケーキが運ばれてきたのを見ると、何と「ケーキ3年半」と書いてあったりとギャグの連発でした。何といってもウケタのは、昔の「どっきり」でのりピーの寝室を訪れた時の映像。youtubeにアップされていたものですが、会場は爆笑でした。
イベント終了後、恒例のサインと撮影会。ファンたちが贈ったプレゼントは持ち帰れないほど
たくさんありました。

シャネルズ

1980年 に、鈴木雅之や桑野信義 らと共に、ドゥーワップ グループ の「シャネルズ」の一員としてメジャーデビュー 。デビューシングル『ランナウェイ』が110万枚のミリオンセラー を達成する。1980年7月、メンバー10人のうち5人が埼玉県青少年保護育成条例 違反(わいせつ行為)の疑いで書類送検され、シャネルズは半年間謹慎する。なお田代はこの件に関わっていない。

その後フランス の高級ブランドシャネル から物言い がついたことで(化粧品会社のCMソングを担当することになり、シャネルズというグループ名を使うことが不適切になったためという説あり)、1983年 に同グループが「ラッツ&スター 」と改称された後も多数のヒット曲に関わり、『ザ・ベストテン 』などの歌謡番組 を通じて日本お茶の間 のお馴染みの顔となる。また、ソロ デビューとしてシングル『新島の伝説』[3] をリリースし、作詞家 としても小泉今日子 の楽曲を手がけるなどの活動を行う。

母の故郷である佐賀県 に生まれるが、出生後まもなくしてキャバレーチェーン店 を経営していた父がほかの女性 のもとへ走ったため両親離婚中学 時まで母との母子家庭 だった。母は夜の仕事をしながら政を育て、母が留守の間は大家に預けられていた。ミッション系幼稚園 に入園、その後小学校 入学直前に東京都 新宿区転居 。転居先の百人町 でも母との二人暮らしをする。

政が13歳の時、母が再婚 。その後間もなくして父や父の再婚相手である女性と一緒に住む事となったが、その生活 になじめず素行不良 が目立つようになり、煙草シンナー に手を染める。また、新宿の映画館によく通っていた。

杉並区 の中学校への転校 を経て、1972年 4月芝浦工業大学高等学校 機械科に入学 、同年の11月 には早くも普通自動二輪運転免許 を取得し、オートバイ にも乗るようになる。高校入学直後、同校では田代以上の不良 だった鈴木雅之 と運命的な出会いを果たす。ソウルミュージック 好きだった田代と鈴木はすぐに仲良くなり、相変わらず父との生活になじめなかった田代は鈴木の によく遊びに行き、鈴木の母からも家族同然にかわいがられていたという。高校生になってからも中学生時代からの素行不良は変わらず、ケンカ暴走族ディスコナンパ に明け暮れ、傷害事件で警察に留置されたこともあった。一方鈴木は、高校在学中に映画『レッツ・ザ・グッド・タイム・ロール』中に登場するドゥーワップに刺激され、ドゥーワップグループ結成を決意。その後高校を中退し父の工場で働く傍らコーラスやダンスの練習を重ねており、田代もその輪の中に入っていく。当時はまだプロになるという考えは無かった[2]

1975年 3月 、高校卒業。この時期から田代は車に凝りだし、サニーグロリアカマロフォードプレリュードベンツ など、次々と車を乗り換えている。同年の6月 父と大喧嘩をして家を飛び出す。その後シャネルズのメンバー久保木博之の誘いで同じガソリンスタンド に就職し、会社 で暮らす事になる。この頃に大型自動車免許を取得し、3年後の1978年 トラック運転手転職 する。シャネルズのデビュー後もしばらくは運転手を続けていた。