ターさんの雑記帳 -2ページ目

チョーかわいい

昨日テレビで「マイボス・マイヒーロー」とやら言う学園ものコメディーを観ていたら高校の期末の古典の試験問題に「いとあはれ」の現代語訳があって「あはれ」(あわれ) はそのまま「可哀想」とか「悲惨な」のような意味だけでなく逆に「感動的な」とか「心に沁みる」と言った意味合いまで当時はカバーしていたとのくだりがありました(現代でも一応辞書には載ってるみたいだけど)。


それから有名なところでは清少納言の枕草子だったっけ?「いとをかし」。これも「可笑しい」だけでなく「綺麗」とか「趣がある」とか「立派」など等いろんな意味をもたせていた(?のか昔の言葉を昔どのように使っていたのかなんてその時代の人間にしか本当のところはわからないのだから学者が勝手にそういうことにしてるとか?)とのこと。


そこで「チョーかわいい」と言う言い回しなんだけどまんま「いとをかし」の現代語訳なんじゃないかと・・・思うわけです。清少納言嬢も当時若い娘さんだったんじゃないんですか?多分。春には雲を見て「えーウソーッ、カワイイ!」、夏は夜になるとウキウキして月が出ても雨が降っても「それってカワイー」、秋には雁の群れが「チョーかわいい」、冬はサムイからぁーあんまし好きじゃないけど白い雪とかって「かわいくナイ↑?」・・・と言った感じではないでしょうか。


そういうことで「日本語の乱れ」を実は自分も気にしてはいる訳ですが流行語はすべて否定する年寄り連中の主張はどうも納得が行きません。「チョーかわいい」など新語としては便利だしそもそも今までにない新しい事象が発生した時にそれを表現するために新しい言い回しが発生するのは至極当然なのではないかと思われます。

それよりもむしろ例えばうさぎを数えるのに「一羽」箪笥は「一棹」のようなその昔の流行語(ちゅうかスラング・符丁)が定着してしまったもののなかで意思の伝達手段として不適切なものを改善するのが先決ではないかと思うわけです。
なぜなら純粋に科学的に哺乳類と鳥類を分類することができる未教育の児童より機械的に教え込まれた通りなんの疑問も持たずにうさぎを鳥類同様に数える児童のほうが高い評価を受ける結果になる訳ですから。

カッコいい?

その昔トヨタカローラと言うところで車を売ってたんだけれど、その当時「カムリ」と言うオッサン車の販売に力が入っていたと思ってください、ところがこれホントにオッサンぽくてカッコ良くないものだから売ろうとすると「やっぱりマーク2だよね」とか「EDの方がカッコいいからなぁ」などと言われ苦労したものです。

でもねぇカッコわるいと言うだけで性能的には遜色ない、むしろ安くて広くて小さくて早くて経済的なんだよね、少なくとも「ED」(えーと性機能障害のことじゃなくて車名ね)より。

他にも友人に車を売ろうとしたらその当時サンルーフが流行っていてその友人もカッコいいからサンルーフが欲しいと希望しているところを在庫の関係から「サンルーフなんてカッコだけで重くなるし強度は落ちるし狭くなるしいいことないよ」と説得していたら他所のディーラーで買われてしまったこともあったっけ、ねぇM君。


広い、軽い、小さい、速い、燃料消費が少ない・・・etcはそれぞれ数値として計測できる訳だけど「カッコよさ」はただ単にイメージ、思い込み、主観だと思うわけだ、自分は。
他にも「カッコいい髪型」とか「カッコいい服」とか「カッコいい彼(彼女)」とか色々あるわけだけれどどれもみな一緒で主観だね要するに。


そもそも自分が「格好良い(美しい)」と思うものは「自然の造形物」なんだな、例えばライオンのたてがみ(K首相は滅法不自然で問題外)とか疾走する馬とか断崖で砕ける波とか夕日に染まる尾根とか・・・。
人間がカッコいいものを造ろうと力めば力むほど「不自然」で「格好悪い」ものに仕上がってる様な気がしてならない、例えば大概の理髪店や美容院で散髪後セットとやらで人様の頭をいじくりまわした結果というのはなんとも不自然の代表格ではないかと思う、一部稀にものすごくセンスのいい職人か自分と完全に感性がマッチした職人に出会えた時以外、ねぇどうですか?

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

なーんでこの科学万能?の現代社会において未だに「坊主」「神主」「牧師」が失職しないのかとても不思議に思っています。


特に「坊主」・・・考えようによっては「恐喝」なんじゃないの?と自分は思うわけなんだけどその脅してる実体が現世の肉体ではなく「あの世の幸せ」だの「死後の霊魂」だのの架空の存在し得ないものだからかろうじて現世の法律では「恐喝」と断ずることができない・・・ってことかな?


その昔簡単に人がころころ死んでた時代(つい最近まではそうだった)、公共の火葬場だのセレモニーホールだの互助会だの無かった時代、役所やそもそも国家自体不安定で社会保険など無かった時代、市役所も図書館も学校も無かった時代・・・寺院はそれなりに公共施設として役目を果たしていたこともあったであろうことは否定できないとは思う。


が、しかし今で言うならセレモニーを行うのに真っ暗では都合が悪いから照明を点けて、少々臭うので芳香剤のキャップを開けたりするところを大昔は電気も芳香剤も無いからロウソクに火を点し線香を焚いたことから始まったのであろうと推測できるしきたりや外国語など存在することすら想像も出来なかった時代に魔法の呪文(チチンプイとかビビディバビディとか)として伝来した元々はインド語(サンスクリット語?チベット語?)の中国語訳をこれまた日本語読みしたうえに聞き取りづらく節をつけたもの?をものすごく単純化した打楽器の伴奏のもと読み上げる儀式とか・・・とても現代人のなせる業とは思えない。


少なくとも自分の場合ガキの頃なにも知らずに親の言うまま毎晩仏壇に火を点し線香を焚いて経文など丸暗記してた時は何かと学校で不愉快な思いをしていることが多かったし、免許を取って中古車を買ったら母親が大層立派なお守りをいただいてきて車に付けろとのたまうのでしばらくダッシュボードに入れておいたらちょこちょこ事故るし、小学二年から育った家の屋根の梁にはこれまた母親がいただいてきたお守りが貼ってあったらしいが十年前に放火されて全焼してしまったし、とりあえず母親がだまされてる明治時代に派生した新興宗教については自分はまず「恐喝」ではないにしても「詐欺」にニアミスしてる・・・のではないか?と思っている。

回覧板と連絡網

実はウチの息子はボーイスカウトとやらに所属しているのだが、先ほどから「連絡網」の電話が来る予定・・・とかでずっと風呂にも入れず電話を待っている、かれこれ2時間ほど。

先日自分の職場でも「非常災害時連絡網」とやらを作成したいのでつきましては個人情報の扱いには充分注意いたしますので連絡先電話番号をお知らせください、と文書が回って来た。


連絡網と言えば中学生の頃、実は気になってる娘の電話番号に友達数人とフザけて電話し受話器越しにギターなんぞ弾いてみたりしたのを思い出す。好きなら好きとはっきり言えばいいのにそこはそれ中学生、単なるイタズラ電話でしかなかったのがなんとも子供らしくてw


しかし一週間後の行事予定の連絡とかならまだしも(それにしたって携帯の同報メールの方がどんなにか効率的か)「非常災害時」の連絡網・・・ってのはナニ?「非常災害時」運悪く「非常災害」に出会ってしまって電話が不通になったら電話にでられないしかけられないじゃん!

小学生の頃の連絡網だと当時何人かは電話が自宅になくてその子のところは近所の電話のある子が連絡するようになってたけどそれは最初からその経路になってるから近所の子が連絡できるけど「非常災害時」急に不通になったら多分連絡網はそこでストップ・・・だよね?


それからもうひとつ「回覧板」・・・あの厚紙のバインダーってやっぱ専門業者があるのかなぁ?で、そこの営業マンはそこここの「自治会」を営業して回ってるのかしらん?広告が入っててその広告収入でバインダーを納入しているような感じだからいわゆる「広告代理店」の仕事?


でもだいたいほとんどどうでもいい情報・・・(自分にとっては)なんだなぁ、警察便りなんて交番の掲示板に貼っておけば見たければみるし役所の窓口案内なんて行くとき電話で聞くさぁ。

ましてやなんたらかんたら福祉団体への寄付のための便利グッズの共同購入・・・なんてのが前住んでた自治会ではあったんだけどそんなん言語道断だな、自分は。


自分にとっては「連絡網」と「回覧板」は単なる惰性の習慣としか思えない・・・な、その昔自宅に電話の無い家には近所の子が連絡したように携帯やPCの無い子限定でとりあえず「連絡網」や「回覧板」を残して行く形でもいいかも?と思う訳だ。

エコロジー?

今日も今日とて狭い県道のバス通りを往復して思う訳だけど「アイドリングストップバス」ってのは一体全体どの程度エコに効果があるのか?甚だ疑問を感じてしまいました。

信号待ちや停車場でホンの数分アイドリングをストップした分の大気汚染量とエンジン起動時の生ガスタイミングを逸して後続車をせき止めて発車した場合の後続、そのまた後続その後ろ・・・と続く一群の車の遅延による排気ガスや信号が青に変わって発進する際のタイミングの遅れによる後続車の交差点通過時期の遅延による道路全体に於ける通行量の増加の比較データなどは正確に取って実施しているのかぁ?

話は変わって職場の空調調節についても毎朝誰が開けるのか決まって開いている窓がある。
開けている本人は単に「暑いから」「寒いから」と開けているのだろうが自宅と違って大きな施設の冷暖房は「空調、エアコン」なのであるから例えば暑いからと窓を開け外気を導入すれば空調装置のほうでは設定温度まで上げようとフル稼働してしまう訳で非効率この上ない。

また近所のスーパーの二重ドアを通行する際、対向する方向から人が来た場合ドアを開けてくれるのは良いがそのまま開けっ放しにして行ってしまう人が大半であるのが自分には信じられない。
例えばお年寄りや大荷物の女性などとすれ違う際ドアをあけるのは当然であるし、安全に通過するまで見守り通過後には元に戻すのがジェントルマンなんじゃないの?と思うわけだ。
で、自分のような韋丈夫なら社長様でも王様でも無いのであるからドアは自分で好きなように開けるのが当然でわざわざ人様に開けていただく必要はない!と常々感じている訳です。

で、話は戻って「アイドリングストップ」だけど本当のところはどれだけ具体的に「エコロジー」なのかは関係ないんだろうな~、と思うわけです。
要はK電鉄、Kバスと言う会社のイメージがプラスになれば良いだけなんだろうな・・・普通は他人にドアを開けてもらえれば素直に嬉しく感じる人の方が多いのと同じように「アイドリングストップ」を謳っていれば素直に会社より公共の利益を考えてる優良会社だと感じる人が多いんだろうな・・・

すすいだ瞬間キュキュッと

この間テレビで梅宮辰夫(敬称略)がテレビショッピングで洗剤の宣伝の際シャンプーの後は髪がキュッキュッとならないと洗った気がしないと言った感じのコメントをしていましたがこの発言には禿同wでした。

リンスインシャンプーだの手に優しい食器洗いだの弱酸性のDaveだのどうもすすぎの後が「ぬるぬる」で気に入らない<`ヘ´>
やっぱ透明な緑色ですすぐとキュキュッとするシャンプーがいいのに最近はどこにも売っていない・・・

あちこちのドラッグストアやホームセンターを見て回ったんだけど安いシャンプーって売ってない、あってもトニックシャンプーしかない・・・(T_T)
まああれもキュッとはするんだけどスーっと爽快感は特に必要ないのにその余計な付加価値のために若干値が上がってるのが気に入らない。

オジサンはやっぱせっけんなのかぁ~!?

裸の王様

NHK、西武グループ、社会保険庁・・・ちょっと前では雪印乳業、日本ハムなど等の事件からアンデルセン童話の「裸の王様」を連想してしまうのは自分だけ・・・?
参考(青空文庫> アンデルセン童話集> HTML版

その昔苗場プリンスのスキー場でリフト係りのバイトをした際(もうかれこれ20数年前ね)、月に二回くらい山全体にお触れが回って来る訳です、で、その時は従業員一同襟を正して緊張するんだけど、その実ただ単に自家用ヘリで颯爽と乗りつけて遊びに来てる・・・?ようだったな、社長。

アンデルセン童話で風刺されているということは昔からどこの国でもそうだったんだろうなぁ・・・とつくづく納得してしまう今日この頃。当初組織の長に就任する時点では目覚しい働きやリーダーシップを発揮したであろう人物でもその後組織が長く存続し大きくなるに従って出世欲や保身に執着する家臣に周りを囲まれて俗物に成り果てる・・・?

例えが悪いとは思うんだけど「地下鉄サリン事件」・・・もねぇ、自分が考察するには確かに一番の悪党はグル松本ではあるんだけど、その周りの幹部・・・そのなかでも一番手に負えないアフォが井上だと思うんだなぁ。
「先輩達!我々の教えに従って正義を行うのに何の躊躇があるんですか?正義を貫きましょう!やっちゃいましょう!」等と情熱たっぷりに煽りそうな感じのコゾウ・・・といった風体だよね、見たところ。
で、後輩に煽られちゃ致し方ない、村井とか岡崎とかが「うん、井上いいこと言うじゃないかその通りですね、グル?」等と同調しそうな感じ・・・?

でもって情熱的な正義に燃える(トンデモナイ間違った正義だけど)集団の群集心理でもってあの大事件へと進んで行ったのではないかと、自分は推測する訳です。

裸の王様は一番アフォだし、詐欺師もワルなのは当然。でも保身のため出世のために詐欺師に同調した家臣も積極的に悪事に加担していないとは言え自分が思うにはタチの悪さでは一番ではないか・・・と、思うんだなぁ。