とてもたくさんの人たちが自分の目の前を通り過ぎました。そこは渋谷のスクランブル交差点だったかもしれませんし、そこは田舎のバス停だったのかもしれません。その場所でたくさんの人たちが、自分の目の前を無機物として通り過ぎました。綺麗な人や確かな人、指を噛む人や不安を抱える人がたくさんいました。
自分は若いころ、だれかを救うことができると思っていました。それは、言い換えるなら、だれかを救わなければ自分の存在価値がないのだということを表していた切迫した義務感でした。果たして、自分の人生で誰かを救うことはできたのでしょうか。思い返すに、救えたのは自分一人だけです。自分の子供すらいけにえにして、自分自身しか救うことができなかったのが、この人生なのではないでしょうか。
自分がだれからも見えない苦しみを感じる理由は、幼いころからなぜか自分の心に刷り込まれていた、「だれかを救う」という訳のわからなぬ義務感です。誰だってだれも救う必要はないのだと思います。誰だって自分以外を救う必要はないはずなのに、そのような義務感を背負って生きているのです。
話は変わって、色というものはとても不安定です。黒さは、1ccの量ですべてを真っ黒にします。しかし、白さは、どれだけ多くてもすべてを真っ白に覆うこと不可能なのです。しかし、黒さとは「悪」のイメージがある言葉ですが、適度な量であれば、色の世界に深さを与えてリアルを紡ぎだすのです。その反面、わずかな白さなんて無駄でしかないのです。世界は往々にして、色と同じように成り立っているように思います。
自分は、これからの人生に黒さを注ぐのかもしれません。社会で培ったバランス感を持った微量な黒さを。しかし、幼いころに持った白さは、いつまでも自分を苦しめるのです。体長が80cmにも満たなかった自分が勝ち得た白さが。母と父の愛情から得た白さは、いつだって汚すことができず、自分を苦しめ続けるのだと思います。