袴田のプロの戦績は28戦16勝(1KO)10敗2分け。
KO負けは一つもない。
35年の19戦は、将来も破られることがあり得ない、年間最多試合の日本記録だ。
数字からは、ひたすらタフなボクサー像が浮かぶ。
36年3月29日の産経新聞番組表、東京テレビ(現TBS)午後8時の欄に
「プロボクシング実況中継」
全日本バンタム級チャンピオン山口鉄彌対全日本フェザー級九位袴田巌(10R)。
解説郡司信夫、白井義男とあった。
後楽園のメーンイベントである。
「白井さんの解説、郡司さんの採点」は……。
翌日の運動面には、山口判定勝ちの結果だけが掲載されていた。
関光徳、天田和芳とともに「KO三羽烏(がらす)」と呼ばれた山口は、
前戦で日本王座を奪取したばかりの絶頂期。
それでも、袴田を倒すことはできなかった。
この年4月には勝又らとフィリピンに遠征した。
郡司の著書「リングサイド50年」によれば、後に逮捕された際、
清水署に「袴田はボクシングのことはよく話すが、
マニラに遠征したことがあるなどと嘘をつく。
袴田がいかに大ぼら吹きであるかの証拠だ」
と責められた、とある。
マニラではマーシング・デビットと対戦し、
10回判定負けの戦績が残っている。