中絶のデータ
ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%B5%B6
厚生労働省によると中絶の年間件数は約30万件
これは届出がなされている数である
ちなみに2005年の出生数は106万
中絶の約40%は30歳以降による
解釈
約5人に1人が生まれてくる前に人工的に命を奪われている
30代以降の中絶が大きな割合をしめる理由としては
高齢出産は母体の身体的なリスクが高まること
既に子供がいて、これ以上子供を育てる余裕が経済的にも精神的にも困難であること
が考えられる
意見
自分のスタンス
「生命は生きようとしている、その命を奪う権利はどの生命にもない」
このスタンスの是非も興味深い論点である
理想的な意見としては、物事の考察というのは
偏りのない中立的な立場から、客観的、合理的に行われるべきである
しかし現実にそのようなことができるのかという疑問もあるし、そのことも考える必要がある
自分がどうしてもこのスタンスから離れることはできないというのは、
物事を考察する上での弱さであるし、偏見である
その意味では中絶について考察するうえで初めから偏った立場にいる
このスタンスから、自分の基本的な姿勢は中絶反対である
「中絶は人工的に胎児の生命を奪うこと」だと思っている
「生命はどの時点で生命になるのか」
「生命の定義とは何か」
という問いは興味深いが、専門知識もないので論じることはできない
そもそも「生命になる」という表現が妥当なのかもわからない
「生命でないものが生命になる」よりも「生命が連続して変化していく」という方が
事実を的確に表現しているように感じる
アメーバのような単細胞生物は分裂によって増殖していく
脊椎動物の生殖も分裂が複雑化したものではないだろうか
卵子や精子は細胞であるが、この細胞もひとつの生命であり
その生命同士が結合することで、新しい情報を持った生命に変化する
受精前の精子や卵子と、受精卵はどちらも生命であり連続している
それは誕生ではなく、分裂であり変化なのではないだろうか
母体の生命保護のために中絶を選択することを否定することはできないだろう
考える必要があるのは、望まない妊娠と不十分な避妊、想像力、知識の欠如である
経済的、身体的、精神的要因のため子供を育てることが困難であるのに、
十分な避妊をしないで性行為を行い、結果として妊娠し、中絶する
その結果として得られるものは
経済的な負担、身体的な苦痛、そして計り知れない精神的な苦しみ
胎児の生命を人為的に奪ってしまった罪悪感
パートナーとの関係の悪化もあるかもしれない
このことを客観的、合理的に考え、出てくる結論は
「避けれる苦しみは避けよう」という単純なものであろう
ここで考える必要があるのは
コミュニケーションとしての性行為と中絶、避妊の関係である
性行為が生殖行為というよりもコミュニケーション行為であるということは、
人間にとって否定できない事実であるし、否定すべきではないだろう
チンパンジーなどでもコミュニケーションとしての性行為は観察されている
このような事実の中で不幸を作り出さないということが重要である
中学生の頃、貧困の中で多くの子供をつくり悪循環をもたらしている世界の状況を見て、
「だったら子供を作らなきゃいいのに」
「セックスぐらいしかやることがないんだろうな」
と軽率に考えてしまっていたことが反省される
彼らからコミュニケーションとしての性行為の権利を奪うことなど誰にもできない
避妊方法が存在しないずっと昔からコミュニケーションとしての性行為はあっただろう
平均寿命や新生児の生存率など状況は違うし、
コミュニティー全体で子供を育てるようなシステムが存在していたかもしれないので、
一概に言うことはできないが、
江戸時代や明治時代の日本を考えても、避妊方法が存在しない時代、
コミュニケーションとしての性行為には望まない妊娠が伴い
そこには貧困や身売り、子殺し、中絶などの現実があったことは想像に難くない
コミュニケーションとしての性行為には不幸が伴っていただろう
そのような現実を考慮すれば、
避妊方法の開発というのがいかに人間にとって重要な意味を持つかが理解できる
避妊方法が存在しない時代に避けることができなかった不幸を
人間は避けれるようになったのである
しかし重要な点は「避妊は100%ではない」ということである
ピルの利用によっては避妊率を100%にすることは可能という話である
しかしピルの利用には副作用が伴う場合があるし、病院による処方や継続して服用する必要性がある
結局、まだまだ一般的な方法とは言えないだろう
避妊手術という手もあるが、これも容易ではない
日本で容易な避妊方法と言えば、まだまだコンドームである
そしてコンドームの避妊率は100%ではない
結局のところ、100%望まない妊娠を避けることは不可能なのであろう
これが事実であり、性行為には妊娠する可能性が伴うということを受け入れるしかないようである
「もしかしたら子供ができるかもしれない、その時自分はどうするだろうか」
パートナーと二人で子供を育てるのか、自分にその覚悟、能力があるのか
覚悟だけの問題ではない、能力があるのかどうかはもっと重要である
中絶するのか、中絶する覚悟があるのか、その事実を背負う覚悟があるのか
このようなことを性行為をする前にパートナーを深く話し合うことが重要である
そして覚悟がないのなら、覚悟ができるまで性行為をしなければ良いのである
「セックス楽しいし、避妊は面倒だし、子供ができたら堕ろせばいい」
このような安易な考えを持っている人が本当にいるのかどうか分からない
マスコミが作り出した単なるイメージじゃないかとも思う
多くの中絶経験者は中絶によって傷つき、自分を責め続けると言う
「自分を責めないで、中絶は殺人じゃない」
このような意見を言う人の気持ちも分かる
しかし胎児の生命を奪うという事実からは決して目を背けてはいけないし、
そこから目を背けてしまうことの恐ろしさは誰もが感じる所だろう
常に見るべきは現実である
喜び、癒し、快楽の性行為がその背後にどのような不幸の可能性を潜ませているのか
その不幸を避けるために何ができるのか
中絶という不幸は避けるべきであり、
避けるためには何ができるのかを考える必要がある
といってもこれは理想論かもしれない
人間は完璧ではないし、間違うものである
「相手に嫌われたくないから」「面倒だから」「よくわかんない」
人間はいつだって弱いものである
しかし問題はいつも「自分はどうするか」である
現実を知り、事実を知り、考え、そして自分はどうするのか
自分と自分の周りの人を不幸にしないために何ができるのかである
中絶が法的に禁止される将来がやってくる可能性はあるだろうか
中絶禁止と同時に育児困難な場合は国が引き取るような政策の可能性はどうだろう
このような将来が来るかどうかは別にしても、
育てるのは困難、だけど中絶はしたくない場合の第3の選択肢として
養子制度がもっと一般的になる可能性はあり得るのではないか
中絶は権利だろうかと考えると、
「そもそも権利とはなんだろう」と考えてしまう
男性が生んで欲しいと懇願するのに、女性が中絶しようとする場合、
その決定権は誰にあるのだろうと考えると分からなくなる
胎児の無言の声を聞く必要性があるだろう
副作用の小さなピルが開発されて、もっと服用が容易になり100%の避妊が可能になったとき
人間は生殖、出産、育児をどのように捉えるのだろうか
性行為は楽しみ、コミュニケーションの手段としての意味合いを今以上に強めるだろうか
副作用の小さな経口の中絶薬が開発されたら?
中絶が今以上に簡単に行えるようになったとき、人間はどうするだろうか
中絶される胎児の医療利用については?
いろいろと考えるべき論点はあるようである
しかし、ここまで考えてきて一応の結論を出せば
「避けれる苦しみは避けよう」
「避妊は100%ではないことを理解して、結果を引き受ける覚悟があるのかを自問自答しよう」
ということだろうか