日本への侵略行為 | タロウのブログ

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有史~古代に至るまでの、朝鮮人による日本への侵略行為。
その数は規模・大小を含めれば、数えきれない。
太古の昔から現代に至るまで朝鮮人は日本に寄生し、日本に火の粉を飛ばし続けてきた。
●811年~813年(弘仁の韓寇)
対馬佐須浦に、20~30艘余りの新羅船が略奪と殺戮を目的に上陸してきた。
(入寇とは、新羅王の命令による国家規模の海賊行為の総称。)かつては「新羅の賊」と呼ばれた。
老齢、男など島民数百人を惨殺し、100~200人の女・子供を捕獲し、奴隷として連れ去った。
その後も、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように大量に朝鮮人が入国を試みている。
●820年(弘仁新羅の乱)
朝鮮留民(帰化人)の乱。遠江・駿河両国に配置した帰化人700人が党をなして恩に叛いた。弘仁の韓寇に呼応するかの如く、不逞朝鮮人が武装蜂起。
「人民を殺し屋舎を焼き、家畜を喰い荒らす」と記された乱民は、やがて伊豆国の穀倉を破り船を盗むなどした。
かつて朝廷(日本国)は、すべての流民=新羅人に口分田を与えて帰化を認め、寛大に遇して恩を与えたが朝鮮土人たちは、あろうことか博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。
●その後の日本では
事後の対策として新羅語の通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように大量にやってくる新羅人集団を尋問できるようにし、796年以来絶えていた弩師を復活するなどした。
●869年~870年(貞観の韓寇)
『日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日にかけて記された博多への入寇と、その後の対策。
大宰府言す。「去る月(869年5月)二十二日の夜、新羅の海賊、艦二艘に乗り博多の津に来たり、豊前の年貢の絹綿を掠奪して即時(すなわち)逃竄す。兵を発して追えども?遂に賊を獲ざりき」と。
これに対し政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、果敢に賊徒を射た防人たちを賞した。
その後、新羅は大船を建造し強行に入寇を試みるが、対馬守小野春風ら有力武人らが撃退する。