☆FacebookやSNS上でのイラッとする投稿や不思議な言動とは?~男性編~
http://news.ameba.jp/20140715-154/
★東芝が在宅医療や介護サービス向けSNSを提供、スマホにつぶやき患者情報共有
http://techon.jp/article/EVENT/20140715/365357/?n_cid=nbptec_r_NMC
☆アップルの「iWatch」はiPhoneやiPadのライバルに モルガン・スタンレー予測
http://jp.ibtimes.com/articles/59314/20140715/223863.htm
★GoogleやFacebookなど米企業団体、ネット中立性の改定案に意見書
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/14/071500045/
☆有岡城とも荒木村重とも関係がない黒田官兵衛の藤巴紋
http://youtu.be/hWXPOa-4KME
☆黒田官兵衛でなかった高松城水攻案、考えたのは誰!?
http://youtu.be/du5X8dcmjh0


「異説.黒田官兵衛」二作目は、黒田の紋「藤巴」は官兵衛の有岡城土牢生活とは関係がなかった。
そしての藤巴紋は替紋とされ、表立っては使用されていなかったという話しです。




史実とは違う黒田官兵衛の通説に、史実に裏付けられた「異説」をご紹介。黒田の紋といえば、藤巴。
官兵衛が捕らえられた土牢生活の中、藤の花に勇気づけられたことから、家紋にしたといおのは俗説で、ほんとうのワケは別にあります。また、藤巴紋は、黒田家の替紋で表紋は別の紋でした。「異説」にご意見・ご苦言・さらなる異説をコメントで頂ければ幸せです。



今日の大河官兵衛。またも官兵衛が顔に流星を走らせたウマに騎乗。
欧米の映画でさえ、15世紀や16世紀を舞台にした映画に出て来る王は青毛か白馬に騎乗しているというのにッ!
今日のNHK官兵衛は、どうやら青山の合戦。
官兵衛が陣を敷いた、こちら土器山から望む夢前川をはさんでの青山方面。

黒田修理亮利則という官兵衛如水公・次弟が宗像郡津屋崎・現福津市津屋崎に住み、
福岡藩水軍の調練を行っていたということが三浦明彦氏の著作「西日本人物誌・黒
田如水」中に書かれています。

その典拠を探っているのですが、今日、福岡市総合図書館郷土資料室で「増益家臣
伝」という「筑女黒田家文書」と呼ばれる一連の黒田関連の文書のうちの一つの巻
三に「黒田修理亮利則」の項を見つけ、「長政公筑前入府の後宗像郡津屋崎浦に云
々」と確かにあるのを確認しました。

残るは、利則による藩水軍調練の典拠についての確認のみ、となりました。

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▶▷黒田官兵衛・長政父子、福岡入府経緯

※画像は伝官兵衛使用の合子形兜
(ごうすなりかぶと)

天正14年の島津征討で活躍した黒田官兵衛は、恩賞として豊後中津藩12万石(18万石とも)を秀吉から拝領します。翌年の15年5月に秀吉自らの九州下向、島津氏が薩摩まで押し戻されることで、この島津征討戦は終結をみます。

秀吉は、その際、薩摩からの凱旋途上に、博多箱崎浜の筥崎宮に陣を張り、6月の間、約20日を過ごします。

この間、秀吉軍として九州に集結していた諸大名の兵、約18万が博多を取り巻く浜に溢れていたといいます。

20日の滞在の間、秀吉は千利休などの世を代表する茶人達や、当代随一の歌人といわれた細川幽斎を丹後からを博多に呼び寄せるなどして、毎日のように茶会や歌会を設ける一方、官兵衛に命じて、戦乱で荒廃した博多の町の復興事業を進めます。

余談ですが、この時に行われた、秀吉が食べることになる、或る茶会の茶菓子を用意した菓子屋(当時、菓子屋があったという話し自体、歴史的には誤りなのですが)はどこであったかという論争が、現代の博多の菓子屋のなかであります。

さて、その後の関ヶ原の合戦の末、官兵衛の息子・黒田長政が筑前福岡藩52万石を拝領することになるのですが、この時は、そうしたことになる、その後の筑前博多との縁について予想もせずに復興事業に官兵衛は尽力したと思われます。

時代は、秀吉による小田原北条氏攻略、朝鮮出兵(博多は重要な兵站基地の役割を担いました)、秀吉の死、関ヶ原の合戦後の徳川政権の成立と、進みます。

関ヶ原合戦後、先きにふれたように官兵衛の息子・長政は筑前52万石を拝領します。黒田氏は豊前中津12万石から、3倍の加増を受け、大大名となったわけです。この加増は、わずか一日で東軍・徳川方勝利という形で雌雄を決することになる関ヶ原の合戦での、最大の功労者は黒田長政だとの家康の評価によるものです。

一方、関ヶ原合戦時の父・官兵衛は九州にあって、豊前中津を進発、北部九州を回り、肥後、薩摩へと西軍・石田方に付いた諸大名の本拠を襲い、九州のほぼ全域を制圧するという働きを行っています。官兵衛の、この動きについては、息子・長政の家康への忠誠一方の動きとは異なる存念があってのことともされています。

52万五石の大名としての筑前入府時、官兵衛は既に隠居し如水と言う法号を名乗っていたことから、黒田氏では官兵衛を藩祖と呼び、長政が初代藩主となったのでした。

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