鹿児島県鹿屋市にある「桜花(おうか)の碑」を慰霊致しました | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

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”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

 

 鹿児島中央駅から
鹿屋直行バスにて
1時間54分で航空隊前下車、

 

 「航空隊前」から徒歩で
30分の距離にあります。



 ちなみに
「野里国民学校跡」より
徒歩1分の距離にあります。

 

◇人間爆弾と呼ばれた「桜花(おうか)」



 太平洋戦争中に
旧日本軍によって

開発された
「桜花(おうか)」は、

1,200kgの爆弾を搭載した
1人乗りの特攻兵器です。



 「桜花(おうか)」は、
搭乗員ごと敵艦へ

体当たりをするために
のみ設計された

飛行機型の
ロケットのため、

車輪はついて
いませんでした。

「桜花(おうか)」は、
一式陸上攻撃機という

航空機の腹部に
取り付けられて出撃し、



敵艦の上空で
特攻隊員が乗り込むと

切り離され、
突入する作戦に
用いられました。



 しかし、
総重量2トン以上ある
「桜花(おうか)」を積み、

速度が低下した
一式陸上攻撃機は、

待ち受ける
敵機の標的となったため、

ほとんどの部隊は
敵機に到着する前に
撃墜され、



「桜花(おうか)」が
鹿屋基地から初めて
特攻出撃した

昭和20年3月21日には、
1日で160名もの
戦死者を出しました。



 これ以降も

第五航空艦隊司令部
(鹿屋基地に設置され、

特攻作戦の総指揮を執った)の
指揮のもと、

神雷部隊の出撃は続き、
多くの尊い命が失われました。



◇「桜花(おうか)の碑」について



 「桜花(おうか)の碑」が建つ
この場所では、



出撃前の特攻隊員たちが整列し
最後の別れとなる

水杯(みずさかずき)を
交わされました。



 そして隊員たちは
崖側の台地へ続く

つづら折りの坂を登り、
トラックで鹿屋基地の

飛行場へと向かった
といいます。



 「桜花(おうか)の碑」は、
出撃した隊員たちの魂を祀るため、

元特攻隊員の
小城久作氏の尽力により、
昭和53年に建立されました。



 碑の題字は、
戦争末期に当地で
海軍報道官として

神雷部隊と寝食をともにした
作家・山岡壮八氏
(代表作「徳川家康」など)
により書かれたものです。



 また作家・川端康成氏
(代表作「伊豆の踊子」など)も、

戦時中の同時期に
海軍報道班員として
野里に滞在していたそうです。

 

 

 英霊の皆様の

ご冥福を祈り

 

祓い、鎮魂を行なわせて
頂きました。