麻雀の歴史
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その1

マージャンの歴史ですが、その原型は中国唐の時代、760年頃、宮中で葉子戯(エーツーシー)という遊びが流行っていたそうです。
日本語に訳すと木の葉による遊び。
これは絵合わせ、文字合わせの遊びだったそうです。
枚数は40枚、トランプより少なかったみたいです。
絵の種類として文銭・索子・萬貫と空文・枝花の計5種類。
このゲームがマージャンの元祖とのこと。
文銭はピンズ、索子はソウズ、萬貫はマンズであるとされ、空文は白、枝花は中の原型とされているが後者の三元牌説は眉唾物のようだ。
でもマンピンソウの原型は葉子戯にあるというのは確かなようだ。


それから900年後(明朝時代)の1621年、葉子戯が発展形である馬吊(マーチャオ)という遊びが完成した。
文銭・索子・萬貫ともに一~九までとなり、現在のマージャンの形が成立したようである。
また、マーチャオというのがマージャンの語源になっているとも言われている。

馬吊はその後時代が清朝に移っていった時に遊湖(パーコ)、江西紙牌(チャンシーシーパイ)と変化していった。
その間に牌の枚数も108枚に増えていて、その牌には水滸伝の英雄達が画かれていたらしい。
また牌の材質も木の葉から紙牌、宮廷ではすでに骨牌や象牙牌が誕生していたらしい。
さらには純金、七宝、宝石を鏤(ちりば)めた牌も存在していたと云われている。


当時の宮中ではマージャンは相当流行っていたらしく、1800年代に入ってから登場する三元牌にその確固たる根拠が隠されている。
白は白粉(おしろい)、發は眉墨(まゆずみ)、中は口紅を表していて、
宮中の女官たちに根付いていたということがわかる。
108枚から三元牌を加えての120枚、更に136牌として現在のマージャンの基礎を完成させたのが陳魚門(チン・イーメン)という人である。


この人は清朝の官吏登用試験をトップで合格しながらも、太平天国の乱の直後で、賊の出身地と近い浙江省出身であったため、いかなる役職にも登用されなかったのである。
陳はこのやるせない怒りをマージャンというゲームの完成へ力を注ぐこととなった。
風牌の4種16牌を加えて、ルールを整備して、遂に葉子戯から千年余の時を経て、マージャンという遊びが誕生した。
正式名称は清(チン)麻雀という。

このマージャンは技巧プラス三元牌や風牌の翻牌によって運の要素を加味してできたこの清麻雀は太平天国の乱の時には軍中の兵士に愛好されたということだ。
この乱のために中央の役職につけなかった陳魚門、その結果完成した清麻雀、そして太平天国の乱の兵士たちの士気を鼓舞したのがその清麻雀。
なんとも皮肉というか・・・。


さて、ここまでは宮中と兵士、限られた人たちの間の遊びだったマージャンが民間に広まったのは清朝末期。
1899年の義和団の乱により、皇帝が宮廷からいなくなってしまう。

三千人の宮中の美姫や官人たちもそれぞれ郷里に逃げ帰っていった(※ 余談ではあるが、三千という表現は数を正確に表したものではなく、何千とか数千と同じような意味で中国ではよく使われる表現で、実数は三千より多いかもしれないし、少ないかもしれない。
多分この参考文献の文章を書いた人は三千という言葉をそのまま数字の3,000と取ってしまったように思う。
ちょっと話はそれたけど、このとき持ち逃げしてきた高価な牌とともにマージャンが民間に広まることとなった。
特に宮中の美姫の多くは揚子江周辺の出身者が多く、その周りの寧波、蘇州、福州、揚州などでマージャンは盛んに行なわれるようになった。
また、これが日本にマージャンが伝わる大きなきっかけになったのだ。

はじめに

麻雀とは、1850年代、馬将(マーチャン)、馬弔(マーチャオ)と呼ばれた伝統的な紙と天九牌と呼ばれた中国のゲームから生まれたゲームだといわれています。

日本には明治末期に中国から伝わり、関東大震災後の頃から市民にも普及するようになりました。

太平洋戦争が終わると、従来の中国式麻雀は衰退し、変わってアメリカ軍が持ち込んだアメリカ式麻雀が普及していきました。

太平洋戦争が終わると、従来の中国式麻雀は衰退し、変わってアメリカ軍が持ち込んだアメリカ式麻雀が普及していきました。

色川武大(阿佐田哲也)などが活躍し、多くの学生やサラリーマンを身近に行うようになりました。

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