タヌキマル店長 上田 直也のブログ(信楽焼ネット通販の狸丸陶器)
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信楽焼たぬきについて

大きいもので6メートルのものから1センチ位の超ミニまで、タヌキの種類は何千種類とある。そもそもこれ程までに愛玩されるようになったのは何故だろうか。それは何よりも日本人が昔から、狸をひょうきん者とかずうずうしいとか、愛嬌ものとかいう動物として印象づけ、しかも実際生きている動物としてより、絵とか置物にした狸をコッケイ視し、親しみを感じていたところにあると思われます。

 「タヌキ寝入り」「タヌキ親爺」「捕らぬタヌキの皮算用」「タヌキの金玉は千畳敷」などのことわざがあるし、コッケイな顔つきの人には「タヌキ」のアダ名をつける。タヌキは人を化かすといいながら、ニクめないしその図々しさにも逆に親しみを感じる。近頃ではタヌキを「他を抜く」意味にも使っている。狸にまつわる民話も各地にあり、昔から話題のつきない存在であったのです。

 室町時代以降のお茶会でも、「タヌキ香合」が陶器で使われていたし、掛軸にも狸の絵が描かれている。てまり歌に「雨のしょぼしょぼ降る晩に、豆狸(まめだ)が徳利もって酒買いに」という節がある。置物狸が大流行したのは、実はこの「酒買い小僧」スタイルの狸である。

 灘の造り酒屋では、酒蔵に豆狸が住んでいないとおいしい酒が造れないという話がある。それ程古い酒蔵、古い伝統と経験がないとよい酒が造れないという例えである。その清酒は慶長年間に完成し、江戸初期から一般庶民の口に入るようになり、酒は徳利をもって行って、酒屋で樽から注いでもらいもって帰ったもので、その使い走りを子供にさせたものである。酒買い小僧の狸の置物は、その姿をタヌキの置き物にしたものである。

 陶器製の狸、特に酒買い小僧といわれる(徳利と通帳を持ち、傘を冠っている)形の置物は、信楽のみならず、常滑や備前、清水などでも古くから焼かれている。どの産地が最初であるか今のところ明らかではない。清酒が酒屋で売られるようになった江戸時代から、狸のやきものは造られていたようである。信楽では記録に残っているのは幕末の門左衛門が確かに狸の置物を造っていた。

 一説によると、徳利又は通帳に「まる八」(丸の中に八)のマークがあるのは、尾張徳川家の裏紋で、尾張八郡を支配する意味であり、しかも徳川家康はタヌキのアダ名があったことから、尾張知多半島にある常滑焼で、「まる八」の紋を入れて造ったのが人気を博し、それを模して、狸の置物には「まる八」と意味も分からないまま造るようになったという説がある。現在、八相縁起といって、笠は災難除け、腹は太っ腹、顔は愛想よく等々言って8つの縁起があるという意味での「まる八」と結びつけているが、これは昭和27年、石田豪澄が「まる八」紋に合わせて詠んだものであって八相縁起の意味の「まる八」紋ではない。

 しかし今日のように全国的にタヌキの置物が流行するようになったのは、狸庵初代、藤原銕造(明治9年生れ、昭和41年没、三重県槇山から9才の時京都の伯父のもとに引き取られ、11才頃からロクロをひいたという人で、信楽へは昭和10年頃、日本一大きな土瓶を頼まれ、大物なら京より信楽でと思い立って移住されて以降、陶製狸の置物づくりに専念された)氏の独特な形、顔立ちが、信楽タヌキの愛嬌ある姿の伝統を開き、築き上げた功績によるものである。つまり、信楽タヌキの顔や体形は藤原銕造氏の原形の継承であるといえる。

 昭和26年11月15日、昭和天皇がこの地に行幸された時、沿道に旗をもった陶製狸が並んでお迎えしたことが、天皇のお気に召して「をさなどき あつめしからになつかしも 信楽焼の狸をみれば」と詠われ、それがマスコミにも大きな宣伝効果を与え、以来全国的に信楽タヌキが大流行した切掛となった。

 今日では、酒買い小僧スタイルを基本として、あらゆる形、寸法、あらゆる用途にも、狸が使われ、信楽焼の代名詞とも言われ、また親しみやすい信楽焼の一助にもなっている。

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信楽焼たぬきの伝説

 現在、信楽焼の狸像には多くの種類がある。ゴルフやサッカーをするもの、女将姿やミロのビーナスみたいな雌狸、ソロバンをはじくものに、ダルマ型のもの、裃を着てかしこまるもの、などなど多彩である。しかし基本的なスタイルは頭に笠を被り、右手に八の字が書かれた徳利、左手に通帳を持ち、腹部が丸く、睾玉が大きいという

姿である。この基本スタイルはいつ頃から定着したのであろうか?

 実はこのスタイルを確立させた人物は判明している。一九二八年頃に滋賀県甲賀郡信楽町に窯を据えた藤原銕造氏である。藤原氏は京都に住み、一九〇四~五年頃に狸の像をつくり、五条坂の問屋に作品を卸していたそうだが、初期の頃は四つ足のものや釣瓶を持ったもの、手拭を頭に乗せたものもつくっていたという。


 しかし藤原氏説については別説があり、『狸の話』の宮沢光顕氏は、徳利に記されている丸八印は尾張八郡を支配していた徳川家の裏家紋であり、酒買いのスタイルは陶器の最も古い産地である常滑地方で生まれたと説いている。しかし中村禎里氏の調査によると、常滑地方では近世まで狸がつくられた気配は無いらしく、藤原氏による 。


 信楽焼の狸とほぼ同時期につくられたとする酒買いスタイルの狸は、常滑焼ではなく伏見人形と備前焼であるという。伏見人形の狸は着物を着ており、笠はかぶっておらず、徳利には丸八印、通帳には酒通と記されている。備前焼のものは腹部が地面まで達し、笠を被っていて、徳利には命酒と記されている。伏見人形、備前焼

ともに陰嚢が表現されていないのが特徴である。しかもこれらは藤原氏の酒買い狸よりも後につくられたものだという。


 いずれにせよ、現在の酒買いスタイルをいち早く採用したのは藤原氏であることは確かである。では伏見人形や備前焼が藤原氏のコピーだったのかといえば、どうもそうではないらしい。一七七六年に鳥山石燕が『画図百鬼夜行』で描いた川獺は、まさにこの酒買いスタイルをしている。一七七四年成立の赤本『玉尽し』には、狸が金玉を延ばして見越し入道と酒買い小僧を作り出す図が描かれているし、幕末から大正頃までに多くつくられた化物双六には尾(陰嚢?)を引きずった酒買い小僧の姿が描かれている。


 ともあれ、狸が小僧に化けて(あるいは化け損ねた姿で)酒を買いに行くという話が一八世紀に生まれ、そのイメージがほぼ同時期に京都と備前の陶芸家の手によって立体化されたということは間違いはないだろう。

 それではここで、狸像の持つ道具や形の特徴の意味・由来を説明してみよう。



笠:まず一つは、妖怪はシトシトと雨が降る晩がよく似合う、ということが上げられる。小雨の降る晩に酒を買いに行く小僧、しかしその代金は木の葉や石ころに…という話は、いかにもありがちである。また笠は旅人、異人(マレビト)の象徴とされ、死者をあの世へ送り出す(旅立ち)ための道具でもある。笠を被った者は顔が見えにくく、素顔を隠すことによって怪しさを強く演出する。つまり笠は怪しさ、異世界の住人であることを意味しているのである。これは正月や節分などの祭礼に登場する来訪神(石垣島のマユンガナシなど)を見ても明らかであろう。

 

徳利の八の字の意味:前述した宮沢氏の徳川家の裏家紋説のほか、狸の胸に八の字の模様があることに由来するという説もある(中部地方では狸をハチまたはハチムジナとよぶ)。また、中村禎里氏は被差別部落の人々、あるいは土地をしめすハチに由来すると説き、その語源となった鉢叩きという芸能が、本来は酒の容器であるひょうたんを叩いたことを明らかにしている。思うに、八は数が多い=無限という意味で、酒が無限に入る、または出続ける、ということを表しているのではないだろうか。あるいは八畳敷きもしくは四国の八百八狸に由来しているのかもしれない。



丸みを帯びたその体型の由来:この姿は達磨や布袋に由来するらしい。禅僧は好んでこの二人の墨画を描いた。そして狸がこの二人の画を描いたという伝説もいくつか残っている。また禅僧は円相という円(本当にただの丸)を好んで描き、達磨や布袋、神像を描くときも丸を基本にして描いたとされている。狸は禅僧の描く

丸型の画風の影響を受けて丸くなっていったようだ。実際、狸の画図は一八世紀初頭までは動物的に描かれていたが、一八世紀中頃より腹部が丸く膨れた姿で描かれるようになる。その時期はちょうど前述した狸の勧進僧の話が広がった時期と重なる。こうして丸く膨れた腹を得た狸は、時代を経て焼物として立体化されたのである。

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