佐伯順子の『美少年尽くし』を一神教世界に改変してみます。ただし、素材はありますが、全てフィクションです。

 

あの燦然たる栄華を誇った神の守護者の王朝も傾き掛けていた、慎んで神の御前に嘘偽りは申しませぬ。

ウェイイン、この壮年に差し掛からんとする法学者は、尖塔の窓から、街下を見下ろしていた。

「こちらにおいででしたか」

階下から上がってきたのは、ウェイインの弟子ハルムーンだ。

法学者は水煙草の煙を燻らせつつ、ハルムーンに徐に言った。

「共に諸国を回らぬか」

ハルムーンは、一瞬驚いたように目を見開いたがすぐに

「喜んでお供します、何処へなりとも、貴方様と共になら」

と答えると、やや俯いて赤らんだ。夕陽は傾いている。

ウェイインには弟と、妻が2人いた。

ウェイインらの宗教では、9人までの妻帯が許されるが、夫には妻の扶養義務が課されるため、富裕な者でない限りは、まず9人も娶るものはない。

2人の妻でさえもこの地域では珍しいものだ。

しかし、弟と最初の妻は、今はもういない。

最初の妻エイリンは数年前の流行り病で没し、弟とハルムーンに後事を託した。

ハルムーンから見て、エイリンは天真爛漫で、家族で誰より騎馬も上手く、顔立ちからすれば美丈夫で、ベールが無ければ、女性とは見なされないと思うりりしい容姿をしていた。

ウェイインとエイリンは、許嫁というのではなしに、異教徒による侵攻を食い止める戦役で活躍する志願兵の指揮官仲間として知り合った。

ハルムーンがまだ幼少の頃であり、ハルムーンはその戦役の孤児である。

ウェイインとエイリンは心から愛し合っていたが、エイリンは身籠らなかった。

エイリンが瓦礫から見つけてきた幼子は、二人にとっては、まず義子だったのだ。

この宗教は血統を重んじるため、養子は親族からしか採れないが、孤児を養うこと自体は奨励される。

そして、孤児が成人すれば、法的には親子ではないので、婚姻も許される。

「お前は聡いね」

とウェイインはハルムーンを引き寄せて、頭を撫でる。

一番星が西の彼方に姿を現していた。

ウェイインの弟、ウェイランはウェイイン家の家計を支えていた。

ウェイインも田畑を耕し、レンズ磨きもしていたが、弟が兄の学の時間と費用を少しでも長く多くするために、交易商人の奉公人をしていた。

最初は責務の故に「お前はお前の時間を使って」と断っていたウェイインだったが、生来の身体の弱さと無理が祟って永らく伏して以来、ウェイランが家計を支えるようになっていた。

ハルムーンから見て、ウェイランはいたずら好きで、「兄貴はすまない、すまないと、真面目すぎる」と、日に焼けたはにかむ顔が今でも脳裡に焼き付いている。

そんなウェイランもエイリンが亡くなって間もなく、嵐に遇って帰らぬ人となった。

遺体は見つからなかった。

「ウェイランらしいな、今にもそこからひょっこり出てくるのではないか、という気がする。」と、海を寂しげに眺めるウェイインの背中が痛かった。

ハルムーンは、蝋燭に灯りを灯した。外はすっかり暗くなっていた。夜風が気持ちいい。夜陰は全てを覆い隠してくれる。

ハルムーンは、ウェイインの腕の中に戻ると、ハルムーンと唇をそっと重ねた。

ハルムーンはウェイインとのこの関係を始めから、手放しに受け入れられていた訳ではない。

親代わりにして、同性に、何という「邪な」思いを抱いたのか、と激しく後悔し、何度も神に赦しを乞うた。

しかし、体は激しくウェイインを求めてしまい、ウェイインはその熱を自ら慰めるたび、神に悔悟な祈りを捧げた。

自らを慰めること自体は、勧められないが、大きな過ちを犯すくらいなら、と許されていた。

ウェイインらの宗教は、このように性自体には寛容であるが、性が身や家、国を滅ぼす力を秘めていることには警戒心があった。

お試し婚が可能な少数説もあるが、基本的に婚姻契約を結ばない性行為は禁忌だった。

同性との関係を明示的に禁じる叙述が神の言葉たる聖典にあるわけではないが、尊敬すべき先人の伝承には明示的に同性との肉体関係を処罰する記述があった。

ハルムーンはウェイインから神の学の手ほどきを受けていて、そのことを知らない訳ではない。

まだ、あどけなさが微かに残る当時のハルムーンは禁欲の失敗を懺悔すると同時に、どうかこの秘めたる恋までどうか奪わないで、とそっと神に祈った。

告げる宛もなく、ただ密かに主しかご存知ない恋。

ハルムーンにとって、ウェイインとエイリンの間に割って入ることなど想像だにしないことだった。

何よりハルムーンはウェイインとエイリンの間の、両者にしか分からない空気を敏感に感じ取っており、二人の仲睦まじい様子を遠目で眺めているのが好きだった。

だから、まさか自分だけの忍ぶ恋に、他ならぬエイリンが真っ先に気付くとは、考えもしなかった。

「決して責めたい訳ではないの。」

と重い口を開いたのはエイリンだった。

ハルムーンは、ただ、俯くことしかできない。

「もちろん、ハルムーン、貴方に複雑な思いがないと言えば、多分嘘になる。けれど、私はあの人の小難しいところはさっぱり分からないし、貴方もあの人の支えになってくれたら嬉しいわ、神に誓って。」

ハルムーンは、俯きながら堰を切ったように泣き始め、エイリンは我が子をあやすように静かに抱き締めた。

「ああ、でもどうしてあんな堅物よりも、私を好きにならないのかしら。あの人、鈍いから、貴方の気持ちには気づかないわよ」

ひとしきり泣き終えたハルムーンに向かってエイリンはため息混じりにごちた。

「そんな、私は遠くから見ていられるだけでも幸せで。エイリン様を差し置いて、どうこうなろうなんて滅相もない。それにエイリン様は私にとってかけがえのないお方で、魅力的で、えっと」

ハルムーンの慌てぶりにエイリンは吹き出しながら、

「確かに、肉体関係を神は赦されないのかもしれないけれど、愛を告げることまで禁じているのかしら?私は私の信じる神がそんなに狭量な神だとは思わないわ」

と耳元で囁き、そのまま外に出掛けてしまった。

残されたハルムーンは、心臓をばくばくさせながら、「告げてもいいのだろうか、神様」と、その場に顔を真っ赤にさせたまま、呆然と立ち尽くした。

エイリンの仲立ちもあって、ハルムーンはウェイインにある新月の夜、ウェイインの書斎で内に秘めた想いを告げた。

ウェイインは、驚いたような顔はしていたがハルムーンの目を見ながら、黙って彼の話を聞き、「少し考えさせて欲しい」とだけ告げて寝室に入った。

ハルムーンは、ウェイインが自分の告白を真剣に聞いてくれたことが嬉しく、もうそれだけで胸が一杯だった。

「ウェイイン様に仕えられることだけで、自分は幸せを使い果たしている、この上に殊更何かを望むのはおこがましい。」

ハルムーンは神に毎晩、想いを告げられたことを感謝した。

一方、ウェイインは三日三晩悩み続けた。

最初は、「それは赦されない、お前も知るように」と返すつもりだった。

しかし、自分の目の前にいる、もう青年になりかけているこの思慮深い少年が、そんなことを考えないはずはないし、恐らく意図的に何も望みを言わないハルムーンに、その言葉は余りにも残酷に思えた。

「少し考えてさせて欲しい」は、ウェイインにとって、ハルムーンを傷つけない配慮であり、本心から残酷な結論をどう伝えるか悩みあぐねて、思わず口を出た言葉だった。

エイリンは、ウェイインの右往左往する様子を内心で楽しみつつ、しかし夫にとって、少年への返事が簡単ではないことをよく理解していた。

ウェイインは、エイリンの求めに応じて口付けを交わした後、徐に

「どうしたらあの子を傷つけず、信仰を損なわずにいられようか」

とエイリンの肩に寄りかかった。

ウェイインは、エイリンから何も聞かされていなかったが、いつも真っ先に自分の不調を気にかけるエイリンが何も聞いてこないことから、既にエイリンがハルムーンの何かには気付いていると察していた。

エイリンは、夫のか細い背をさすりながら、

「神のことで貴方がお分かりにならないことが私に分かる訳ないわ。ただね、ウェイイン、これは貴方とハルムーンに神が与えられた試練だと、私は思うの。だから、私がこうしたらいいと言える問題ではないわ。ただ、貴方がハルムーンと向き合うことを神は祝福されるはずだし、貴方はきっと神を愛しつつ、貴方なりにハルムーンを愛せる道を探せると、私は信じている」

ウェイインは、自分には出来過ぎた妻を与え給うた神に感謝した。

ウェイインはその日から書斎に籠り、食事も書斎で取るようになった。

ハルムーンはウェイインからしばらく暇を出され、自分がウェイインを困らせているのではないか、という不安に駆られた。

しかし、エイリンは、「きっと大丈夫」とハルムーンを抱き寄せた。

ウェイインは、この問題に関するありとあらゆることを調べた。

言うまでもなく、恣意的に神意を曲げることは出来ない。

しかし、自分が神意を取り損ねているのではないか、と何度も考え直した。

幾晩か経ったある朝、ウェイインは家族全員を集めた。

折しもたまたまウェイランも帰省していた。

ウェイインはハルムーンにこう告げた。

「私は最初お前に、その想い自体抱いてはならないもの、と告げるつもりだった」

ハルムーンは、じっとウェイインを見つめて頷いた。

「だが、ハルムーンよ、私は神意は、肉欲に我を見失わぬことにあるように思う。確かに、諸学者は婚外性交を神が許さないことでは一致しているし、私もその教えは正しいと思っている」

ハルムーンは、黙って頷いた。他ならぬハルムーン自身がそう思っているのだ。

「だが」

と、ウェイインは続けた。

「私はお前がもし、私に肉欲に応ずることを求めるならそれに応えてやることはできぬが、お前が焦がれる想いを受け止めることまで神は禁じていないという結論に達した。あらゆる文献を調べたが、愛について諸学者は何一つ禁じていない。私はもう1人、妻を迎えようと思う。ハルムーン、私のように何の取り柄もない者を、心から愛してくれてありがとう。ウェイラン、お前は帰ってきたばかり詳しいことは分からないだろうが、追々話す。エイリン、私はハルムーンを娶りたいと思う。私は神意に叶っていると思うが、私に届いた神のこの声を皆に広めるのが正しいことなのか、まだ分からない。正直、禁じられていることを私欲により開いたと、誤解され、皆を危険に晒すかもしれず、場合によっては敬虔な信徒間に不和を生じかねない。私はその不和は本意ではない。ハルムーンよ、私はお前を隠れたこの家でしか今のところ愛でることが出来ぬ。エイリン、ウェイラン、我らのことで迷惑を掛けて済まないが、我々の門出の契約の証人になってはくれまいか。もちろん、我らが神意に違っているとそなたらが考えるならば、この場で殺すがよい。お前たちにはその権理がある。」

ハルムーンは、最初ウェイインが何を言っているのか分からなかった。しかし、結婚という思わぬ結論を聞いたハルムーンは、嬉しさのあまり、泣きじゃくり、この場で殺されても構わないと心から思った。

「まあ、おいらは何があったか、よくわかんねーが、兄貴が決めたことに間違いはねえよ。ハルムーン、詳しく知らねえが、おめでとう?でいいんだよな」

ウェイランは本当のところ、事情をよく呑み込めていなかったが、慎重なウェイインとハルムーンが過ちを犯すとは、露ほども疑っていなかった。

「良かったわね、ハルムーン。ね、言ってみるものでしょ。神の祝福が二人にあらんことを。」

婚姻契約は婚姻を結ぶ2人の男女の同意と、立会人の存在で成り立つ。

ハルムーンは、契約時だけベールを纏った。

纏ったからと言って、女性の身体になる訳ではないが、今はベールが、身体の全てを全てを覆い隠し、一時的にではあるが、ハルムーンは「女」となった。

ハルムーンは、自分の華奢で中性的な容姿をあまり好んではいなかったが、この時ばかりは神にこの容姿を感謝した。

「今、何を考えている?」

改めて軽い接吻を交わした後、壁際で2人寄り添いながら、ウェイインは尋ねた。

「結婚した時のことを思い出しておりました。私がこの家に来てから、ウェイイン、貴方と積み重ねてきたものは山程あって、エイリン様も、ウェイアン様も不出来な私に本当に善くして頂きましたし、私もお二人が大好きでした。きっと神の御許で、お二人は永遠に健やかにおいでです。」

ハルムーンは、ウェイインの手を握りながら、そのように答えた。今や、ハルムーンはすっかり健壮な趣で、対するウェイインの肩はますます細くなっていた。

「立派になった。あどけなさが残るあの頃とは見違える偉丈夫になった。年頃の娘がいたら、皆お前に求婚するだろう。私はお前を私の我儘で、側に置き続けた。そのことに何の疚しさも、後悔もないが、私の世話を焼かせて申し訳なく思う、愛おしい人よ」

ウェイインは、もう自分があまり永くないことを悟っていた。そして、ハルムーンを一人残していくことだけが、心残りだった。

「私は、ウェイイン、貴方から、沢山のかけがえのない時間を頂きました。肉欲に溺れそうな時も昔はありましたが、今はもっと緩やかに貴方を愛しています。エイリン様の分も貴方のお側に居られて良かった。私はこの想いを貴方に毎日告げられるだけで本当に心から満足です。私はそんな未来を想像していなかったのですから。」

その夜、2人は家や街に別れを告げるために夜更けまで昔話を続けた。

明朝、まだ夜明けを告げる鳥や祈りの章句が聞こえるより早く、二人は連れ立って旅立った。

老学者と青年は西へ西へと巡礼に向かった。

二人にとって、それは神の愛を探す旅であり、老学者にとっては死出の旅、青年にとっては看取りの旅でもある。

老学者と青年はこの満ち足りた旅に対し、神に心から感謝した。

老学者は高名な学者であり、この信仰の聖地に巡礼の名前が残されている。

勿論、青年の名も。

しかし、二人のその後の足跡は分からない。

確かなことは、その後、二人の祖国は滅び、今私が手に取った『ハルムーン法学集成』という古書には、「通説に従い、成人信者4名以上に目撃されたまたは当事者が3回以上自白した婚外性交は既婚者は石打、未婚者は鞭打とする。婚姻契約は婚姻する男女の同意と成人信者二名の証人を要する。ただし、婚姻する敬虔な男女に関し、覆われた身体と内面は神が隠されたものである限り、詮索してはならない。また、家の中を知ろうとしてはならない。」とあることだけだ。