まだ見てくださってる奇特な方がいらっしゃるとは思えませんが、長らくご無沙汰をしておりました。


諸事情あって、人間にとっての「死」とはなにかということを考えています


例えば電車というものにそう頻繁に乗れない昔の田舎の子が、都会に進学・就職する仲のいい同級生などを見送るとして、今生の別れでもないのに大泣きしたり、泣かないまでもすごくつらい気持ちになると思います


でもそれは電車を使って行ける範囲のことも、そこで得られる新しい友人も、電車だからまた帰って来られることも知らないからであって、自分から電車に乗って同級生の同じ道を行くことも、同級生に帰ってきてもらうこともできるはずです


思うに、現世を生きている私たちが知らないだけで、生死って実は双方向なものなのではないかと考え始めました。変なこと言っている自覚はあります。でも、聖書には「肉体の欲を十字架につけて聖霊の導きに従うように作り変えられる」といったような言い方がでてきます。


肉体の欲なんて、「食べたい寝たい楽したい」に尽きますし(言い過ぎ?)それを度外視したら体を壊して死ぬしかありません。肉体の欲を十字架につけた存在がクリスチャンだというのなら、クリスチャンは死人ということになってしまう。


それでも私たちは生きているし、生きていていい、と自己肯定感を育んでもらえるのは、イエスが十字架で死んだのち生き返ったように私たちも生き返ることができるという希望があるからではないでしょうか?


宗教っぽい宗教に偏見の強い日本という地において、クリスチャンを名乗ったり聖書を読んでいる・興味があると言ったり、教会に行くことは社会的に白い目で見られ、不可逆に、普通の生活には戻れない一大事と思われているかもしれないが、そんなことはない


クリスチャンだってスーパーで買い物をしてご飯を食べるし、休日に惰眠を貪ることもある(←わたし)


肉体維持のための欲を断てと言われているのではなく、私たちは霊的な生活(肉体の死)と肉としての生活を往復する人生を送っているのではないかと思います。


聖でありすぎては死んでしまう。主たる神が私たちに託した「この世での仕事」を全うできない。


俗でありすぎては主との繋がりを失ってしまう。主の語りかけを聞く耳をもがれ、この世における役割を忘れてしまう


クリスチャンとはかく両義的なものなのではないでしょうか。


このカバーを聴いて、ふとそんなことを思いました(※動画の内容、出演者と私の思想信仰には何の関わりもありません)