彼は水平線にゆっくりと沈みゆく太陽を、西の空に眺めていた。
風にまかせ、この地へ不時着するようにたどり着いてから早、2日が過ぎようとしていた。
6月に入り、梅雨らしくしとしとと降り続いていた雨も一休みしたのか、晴れ間が広がった今日は家族連れが砂浜で戯れるように嬉声を発しながら遊び賑わっていたものの、人っ子ひとりいなくなった夕方からは閑散とし、波も静かに凪いでいた。
「母さん・・・」
彼は思わずつぶやいた。
「今頃、どこに・・・」
いつの間にか水平線へとその姿を半分まで沈ませた、オレンジ色の太陽に尋ねるようにひとりごちた。
 
「おまえなんかオレたちの仲間じゃないんだよ」
 
物心ついたときから彼は、それまで群れを成して行動していた仲間に邪険にされるようになった。
ワケがわからなかった。
彼らアザラシは一匹狼に単独行動する習性がないために、ある日突然につまはじきされた彼は孤独感に打ちひしがれた。
そうだ。
おばさんたちは、僕の母さんはひとりで海に帰るとそれっきり陸へ上がってこなかった、って言ってたけど本当は・・・
思い返せば不思議なことだらけだった。
なぜ母がひとりで海へ帰ったのか。
帰るときには必ず僕の名前を呼ぶのに・・・
あの日、僕はとても疲れていて深い眠りに就いていた。
目を覚ましたらすでに母の姿はなく、おばさんたちがこぞって僕を嘆かわしそうな目で見ていた。
その日を境におばさんたちは僕に対してよそよそしくなった・・・
 
けれど今となっては真相を教えてくれる仲間はいない。
いちばん後ろを泳いでいた彼を振り返ることもなく、みんなは群れを成して遠い国の海へと泳いでいった。
それまで母にすっかりと甘えて生きてきた彼は餌を調達するすべも知らなかった。
ひとり取り残された彼はそれでも、生きていく術を身につけようと必死で、口に入るもの全てを呑み込んだ。
仲間たちと今まで住んでいた海とは違った微生物がここには生息していて、彼の好奇心を煽った。
目にするもの、肌に触れるもの、何もかもが新鮮だった。
風に吹かれすっかりと乾いてしまった肌を慈しむように彼は
「さてと、そろそろ海に帰るか」
波うち際へと身体を動かした瞬間何かを踏んだが、痛みを感じなかった彼は何事もなく海へと帰っていった。
彼が身体を引きずった砂浜には血に染まったガラスの破片が残され、身体から滾々と流れ出た血が糸のように細く海まで続いていた。
 
翌日彼が陸へ上がると何やら人間が騒いでる。
彼の姿を確かめると、どこからともなく大声で叫ぶもの、小さい箱を向けて片目をつぶってるもの、指をさして笑うもの。
彼がいつもの定位置に横たわると、なぜか彼に背を向け、ひとりの人間にピースサインをしている。
大きなものを肩に担いでるおじさんに向かって、一生懸命に喋ってる人もいる。
その人間の姿は彼の好奇心を煽るものばかりだったが、今日の彼はひどく疲れていた。
昨日は気にならなかった、微笑ましくさえも思った人間の賑わった声に鬱陶しさを感じる。
誰にも近寄ってきてほしくない。
彼は少しでも近づこうとする人間に、こっちへくるな、と威嚇するように吠えた。
そんな彼を、人間たちは「湘南のアザラシ、元気に威嚇」ともてはやした。
人間の喧騒にひどく疲れた彼は早々に海へと引き上げた。
 
翌日。
昨日以上に疲れを感じた彼にはもはや、喧騒を避けようと人間が存在しない遠い国の海へと泳ぐ気力も残っておらず、むろんのこと、餌を調達することもできなかった。
彼の身体は衰弱していた。
その日、近くの水族館の飼育員と名のるお兄さんたちが数名、かごを携えてやってきた。
彼はそんなお兄さんたちを朦朧とした意識の中で認識したが威嚇することもなく、不思議と安堵感を覚えた。
「やっと静かに、思う存分眠れる・・・」
そう思った彼の身体は次の瞬間、抱きかかえられた。
そのとき彼の脳裏には生まれた故郷の荒々しくも、いつも無条件に迎えてくれる海や、やさしくそよぐ風、いつも温かい母の胸や仲間と楽しく笑った思い出が走馬灯のように甦り、微笑むように彼は眠りに就いた。
 
                                               -おわりー
 
 
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