俳句は17音。

それで何かを言おうとして。しょせん無理なんですよね。

17音でなんか言おうとすることって。

 

 俳句の片言性なんて言いますけどね。片言の赤ちゃんの言葉と同じですから。

俳句はそういうものだっていう前提で考えてみたいと思います。

 

つまり、俳句を書いて、誰かに読んでもらっても、本当は読者っていうか

読み手は何を言っているのか理解して、作者と同じ思想とか感情とか感覚とかを

上手く受け入れられるか、そしてそれを共有できているのか。

そう思うと、それは不可能だなって思うわけです。短かすぎますから。

 

 本当に何かを言いたいとか、主張しようとしようとすのだとしら、徹底的に詳細に語らなくてはならないのだろうなって思います。西洋の長編小説みたいに、体力に任せてこれでもかって。

だらだら、語らなくてはならないだろうなって思います。例えば『失われた時を求めて』とか『カラマーゾフの兄弟』とかみたいに。それだって言い尽くせないよっていうわけですけどね。

 

 それなのに俳句は17音しかない中に何かを言おうとしちゃうんですよね。

無理無理。絶対無理でしょ。ですよね無理ですって。

そこから考えてみます。

詩的なこと言いたいよね、って言うんだったら、例えば自由詩だって短歌だってあるわけだし。そのほうがすっきりしていいと思うんです。

 

つまり俳句は言いたいことなんて言えないし、それを誰かに伝えようとするものではないのだっていう前提で存在する文芸なんだっていう事です。

そう考えていいと思いませんか。

 

変なことですよね。

不思議なことです。今更ながら思います。

それなのになんで俳句やる人が多いっていうか、いるんでしょうね。

 

さて。と言うことで、すこし考えてみたいと思います。

 

続く・・・・・・・・・(^^)/