自粛疲れの後にはバトン疲れが来るというのがこの特異な環境下で一部の日本人が学んだ無益なtipsであるが、バトンが流れる様は経済活動に似ている。もう最近は先に回さない人も増えたが、少なくとも一部の人は、色々と考えて、バトンの渡し先を考えたはずだ。まずSNSをやっていて投稿をしていることが前提となるが、そのテーマに興味があるか、軽く受け取って楽しんでくれるタイプか等も選択基準に入るだろう。


その様は少し、給付金の周り方を連想させる。せめて年内くらいに一律給付ができたとしたら、生活費に使わざるを得ない人はそうして、緊急には必要とせず、先に回すべきと考える人がどう回すのか。


昔紙幣の発行年別に色を付けて、使用期限を設けるという案を考えた人がいたが、電子マネーになったら使用期限付与はより簡単にできる。給付金に使用期限を設ければ良かったのかもしれない。


今の経済システムを支えるための健康被害や自殺率等、見ないことにしていたコストが明らかになった。海外ではベーシックインカムの導入も試行されている。


経済学の人にとっては、面白く、考えることのたくさんある時代だと思う。

日本人にとって、なぜこうも着物との関係は素直でなくなってしまったのだろう。衣なのにほとんどの人が着ることさえできず、一方で浅い歴史に下支えされた正解を振りかざしてヒステリックに騒ぎ立てたかと思えば、一方で正解を求めて右往左往している。その様はもう、ギャグ。


着物のコーディネートとは、ざっくり言うと着物と小物の組み合わせのことであり、大きくは洋服と変わらない。しかし天候と季節の光の具合、行動の目的、布の種類、織り、柄、フォーマル度、体型の変化、体調、気持の具合、そういった環境をまるごと飲み込んだ上で、数少ない持ち手の中から今日の私にこれ、という着物と帯、帯揚げや帯留め、襟や足袋の色柄、袖や裾からちらりと覗く下着までをすらりと選び取き、体型に合わせて着こなすことは、ベテランであってもそう毎度は成功しない。


でもそれが奇跡のように実現した時の、大きな額縁の絵の中にぴたりと嵌ったような輝きは洋服よりも数倍大きく、味わい深い。


自分を主とする性質が強い洋服選びと、環境と場を主とする性質が強い着物選びの差なのかも知れない。そしてそれは、この自粛下で私が感じている、音楽に求められる性質の変化にも重なるようにも感じる。


幸田文の「きもの帖」には、着物選びのセンスにまつわる話に絡めて、たくさんの魅力的な着物を着る人々が出てくる。

いつも縞や格子の木綿の着物に糊をきかせて、幅の狭い帯をきゅっと結ぶ、小太りの鳶職のおかみさん。襟元をたっぷりと、裾を短めに着る。

黒を好んで着る芸者。この人は自分の首と肩を美しく見せる角度を知っていて、脱げるか脱げないかの絶妙な具合に羽織を羽織る。
キセルを吸い、肌は浅黒く、化粧もしていない老婆の袖からこぼれる、目にも鮮やかな紫に白い鹿の子の襦袢。


お仕着せでない着物は不思議に着る人の人柄や魅力を引き立たせる。



自粛が続いて、なんかもう日にちも曜日も分からなくなってきたが、よくよく見ていれば毎日はものすごく変化する。人に会わないので、だんだんと外の世界へ応答する癖が薄れて来たように感じて喜ばしい。そうなると自分の中心はあほみたいにぽかんとしている。それでいい。



招き猫作家のもりわじんさんが絵日記の中で、「僕らはおそらく坐禅させられているのだ」と書いていたが、そうなのかも知れない。



ピアノで大きな音の曲を弾く気にならず、音の少ない曲を時々、ちょっとだけ弾く。聴く方も、集中を要するプロの音より、アマチュアの音楽の方が聴きやすい感じがする。これからのクラシック音楽は、環境変化を最低限にしたホールで、音も声も立てずに聴くのではなく、家事や食事や会話と並行した場所で聴かれるようになる。状況や人の気持ちによって、求められる音楽も微妙に変化していくんだろう。