短大を卒業後は、新卒で
就職が当たり前の時代。
既卒での就職は
ほとんど聞いたことが
ありませんでした。
皆と同じ時期に就職しないと
いう選択は、ものすごく
勇気のいる選択でした。
まさしく、レ-ルを外れる。
とても、怖いことでした。
同じクラスメ-トには、
ほとんどが就職。
それも、地元の九州です。
その中で、二人だけが
アメリカに留学する
友人がいました。
親が本人の希望を
受け入れて、もちろん
授業料、生活費も全面に
応援してくれるというのです。
もう、あの当時
友人が羨ましくて、羨ましくて。
でも、私の親は、反対。
当時福岡の短大に通っていましたが、
福岡の就職にさえ反対の親でした。
地元の鹿児島、それも市内ではない
人口の少ない地元に戻って
何でもいい、どんな職種でも
いいから戻ってきて就職
すること。これが親、とくに
母親の思いでした。
その時は、地元に戻ったら
私は、一生、この田舎に
残り人生を過ごす。
そう思ったら、「嫌だ-!!」
その思いがエネルギ-になり、
海外に行きたい、英語を
習得したい、自分の夢を叶えるため、
親から自由になりたいという思いから、
何とかインタ-ネットもない
あの時代に情報を集め、
留学は金銭面で無理、
ワ-ホリだったら、バイトをして
貯めたら何とかいけるだろう!
そう思い決断しました。
決断してからは、就職活動はせずに、
コツコツ、バイトをして貯金をしていました。
卒業と同時に、20歳で
親にもほぼ勘当も同然で
ワ-ホリのビザを取得して
単身でカナダへ行くことに
なりました。
新しいことばかり。
エネルギ-はいりましたが、
毎日が新しい事の連続。
自分でもビックリするくらいの
行動力でした。そして、性別、年齢を
超えた素敵な出会いばかりでした。
行動を起こして、九州を離れる。
念願の英語を習得するために
カナダへ行く。
そのための情報収集。
ビザの習得。
チケットの手配。
細かい決断の数々、
自分で決めごとをしてこなかった
19歳の私には、自分で考えて
決めていく作業が大変でしたが、
情報集めて、考えて、決める。
この一つ一つの行動により、
心に火がついたというか・・
私の中の何かが目を覚さましました。
1人では何も決められないような
優柔不断の性格、自信のない私は、
少しずつ変わっていきました。
そして、もちろん渡加してからは、
決めごとの連続です。
出国前に、斡旋会社に留学先、
大学や語学学校、ホ-ムステイ先を
決めめてもらい、ただそこに
行けばいいのとは違います。
留学も大変かもしれませんが、
私から見れば、全て
決められたことをする、
ただ決められた学校に行き、
授業を受ける、英語の勉強だけをすればいい。
「どんなに楽なことか?」
とさえ思ってしまいました。
まずカナダに到着。
今後をどうするか?
そこからのスタ-トです。
当面の宿泊先は決めており、その後
ホームステイをしてみますが、好意的では
ないビジネス的なステイ先。
その後は、大学にある掲示板などを見て
ルームシェアを探したり、新聞など
見ながら、住むところも確保しなければ
いけません。
語学学校は、授業料が高いので、
申し込みもしていませんでした。
行くにしても、日本から申し込みをすると
高いのが分かっていたので、
行くなら現地についてからに
しようと思っていました。
自分の貯金しかないので、
高い授業料を払うのも躊躇していました。
なるべく払わないで出来ることは
避けたくて・・
お金が無くなって、親に泣きつくことだけは
したくありませんでした。
よく留学生など、ワ-ホリ生活でも、
お金が足りなくなり親に援助を頼む。
あまりに楽しい海外生活。語学学校から
カレッジへ。もしくは語学学校延長する。
そういう学生も多いでした。
自分のやりたいことを、親に応援してもらえる。
「それだけで、何と心強いだろう....」
何度も思いました。
余裕がある家庭であれば、
車が必要だから、と親にまたお金を
だしてもらい買ってもらう。
色んなタイプの人がいました。
私の場合は、そういう
海外生活ではありませんでした。
生活費もそうですが、学費も自分で何とか
しなければいけません。
時には、そのプレッシャーで、他の人と比べて、
悲しくなり、将来を思い不安になり、
涙を流すことも幾度とありました。
それでも、後戻りはできません。
進めるだけ前に進もう! 落ち込んだ後には、
またやるしかないと思い自分を
励ましていました。
カナダは移民の国で、教会、もしくは
学校などで、無料の英語レッスンが
受けられると聞いていました。
そこで、外国人向けにやっている、
無料の英語教室に通い始めました。
私にとっては、無料で英語のレッスンが
受けられる、受け放題。
もう夢のような話でした♪
とりあえず、毎日のように
英語の授業を受けて、
毎日を過ごしながら、
今後の生活をどうしようか
考えていました。
授業を受けているのは外国人。
その中では、なかなか
ネイティブの人たちの
つながりがありません。
そこで、
地元の人たちに溶け込むために、
ボランティア活動をすることにしました。
ボランティア活動をするために、予約を取り、(日本では今こそボランティアが盛んですが、
その当時、25年前でも、その予約を
取るのさえ1か月待ちというくらい
カナダの方々の生活にボランティアが
浸透していました)
「どんなボランティアをしたいか?」
紹介してくれる機関がありました。
目の不自由な方の誘導をする
研修を受けてみたり、
* 高校生の時に、いきなり母が糖尿病になり、
盲目になるかもと言われたことから、
それから、目の不自由な方が私の中では
とても気になり始めました。
カナダでは「FOOD BANK」と
言われていましたが、
ホ-ムレスの人たちに配る食品を寄付で集めて
きたものが教会に集められてきます。
教会で、沢山集まった食品、缶類、パスタなどの麺類。砂糖など、食べ物の仕分けをする
ボランティアしたりもしました。
*フランスでも定期的に、スーパーなどで
食品を寄付してもらうように活動している
場面に遭遇します。その度にカナダの生活を
思い出します。
また、せっかく働けるワ-ホリビザ、
お金を稼ぐ意味でも、少し生活費の
足しにもなりますが、それよりも、
英語を使って仕事をしたい
(職種は拘っていませんでした、
選べる立場でもありませんが・・)
ただ、カナダで働いた経験、
それが私の自信になると思い、
チャレンジしたかったことでした。
これが、留学して、ただ学生で英語を
習得!!よりも、何よりも、
今後の就職活動、私の糧に
なると思いました。
その当時、トロントにはスタバのような、
カフェ、「SECOND CUP」という
カフェがあちこちにありました。
通常、採用していると
入り口に ↓のように
張り紙がしてあります。
張り紙がない、お店でも、
履歴書を持って行き、
「ARE YOU HIRING? 」
と声をかけて、雇ってもらえないか
聞いてまわりました。
* これが、フランス、日本で
就職活動する際、何度断れてもへこまず
頑張れたのはこの経験があったからでしょう。
そして、実際にファ-ストフ-ドの
お店で雇ってもらって、
サンドイッチつくったり、コ-ヒ-など
サ-ビスをしていました。
その時の、初めての仕事の日。
お客様が言う事が理解できるか、
とても不安でした。
怖くて、ドキドキだったのは
想像して頂けると思います。
そうです。初めてのことは、
誰でも怖いのです。
でも、少しずつ自分で決めて、行動に
移す、そして失敗する。もしくはうまくいく。
うまくいかない結果だとしても、
行動するということが、自分の中で
自信になるのです。
たかが、お店でサンドイッチをお客様に
希望を聞いて作るだけですが、
それでも、最初のハ-ドルは高くても、
毎日、毎日やっていると、
聞き取れなかった英語も、
慣れてきて、そして同僚との
コミニュケ-ションを取るのも
慣れてくるものなのです。
何でも、習うより慣れろ。
やってみなきゃ分からないし、
誰にでも、初めての日がある
わけです。
でも、行動をしないことには、
何も始まらないのです。
私の初めてのワ-ホリでのトロントでの
生活のことを少し綴りましたが、
何か始めたくても怖い、勇気がないあなた。
失敗してもいいのです、
チャレンジしないと失敗もないのですから。
*すっかりこのロゴをつけるのを
忘れていたら、ランキング大幅ダウン。
上位10位以内ランキング復活を目指しています!
一位復活を目指しています。